1833話 時代の記憶 その8 戦争

 

 私は1952年に池袋で生まれた。戦争が終わって7年後に生まれたことになるのだが、正確に言えば、私は4月生まれなので、生まれる7年前の1945年4月はまだ「戦時中」だ。その年、父は中国にいる日本兵で、復員するのは1946年だ。母は三重県の軍需工場にいた。仕事中に、宿舎にしていた家が空襲を受け、全財産を失った。育った上海から持ってきた写真もすべて失った。

 私は戦後生まれだから、もちろん戦闘も戦争も知らないのだが、「戦後間もなく」らしい話は母から聞いた。生まれた池袋のある夜のこと、私が泣きだすと、「うるさい、寝られない!」と父が怒り、母は泣き叫ぶ私をおぶって近所を歩いたという。その「近所」に、巣鴨プリズンがあった。私が生まれたときに、占領下の日本から独立国日本になったので、巣鴨プリズン巣鴨刑務所と名を変えだが、戦犯は引き続き収容されていた。人々はそれまで通り、ここを「巣鴨プリズン」と呼んでいた。

 昼間に、母が私を背負って池袋を歩いていると、「わー、赤ちゃん」と近寄ってくるおばちゃんたちがいて、しかし、私の顔を覗き込むと、無言で去っていくということが何度かあったという。栄養の問題だったのかどうかわからないが、私の髪はかなり茶色がかっていて、「ああ、そういうことね」と誤解したらしいと母が言う。この赤ん坊の父は米兵だと思ったのだと母は理解した。そういう時代だったのだ。

 そのころ、我が一家が池袋の駅近くに住んでいた理由は、父が地下鉄丸ノ内線の工事に関係していたからだ。丸の内線は戦前から工事が始まっていたそうだが戦争で中断し、戦後工事が再開した。池袋・お茶の水間が開通したのは1954年だが、そのときはもう我が家は奈良の山奥に引っ越している。私の東京滞在は1年だから、当然記憶はない。私が生まれたころの池袋の写真を見ると、もう闇市はないようだが、「まだ『戦後間もなく』が残っているなあ」という気がする。

 あのまま東京で暮らしていたら、「まだ焼け跡のまま」という光景や、防空壕跡や兵舎跡を見かける機会があったかもしれないが、奈良の山奥は明治か大正の風景のまま時間が停まっていた。子供に、戦争は見えなかった。

 奈良から引っ越して千葉の小学生になってからのことだが、ウチの風呂の工事が始まり、その間電車に乗って銭湯に通うことになった。駅から銭湯に行く行く途中に大きな木造の建物があり、窓から裸電球が見えたのを覚えている。今調べてみたら、そこは元兵舎で、私の想像に過ぎないが、戦後は引揚者住宅になり、のちに市営住宅になったと思う。近くの中学校は兵舎を利用して開校したという記述を見つけたが、私が学んだ小学校も中学校も、戦後にできた木造校舎だった。高校は戦前の旧制中学が前身だそうだが、私が入学したときはすでに鉄筋校舎が建っていた。元藩校とか城跡に建つといった由緒ある学校ではないから、「古い物」といえるのは、木造の講堂だけだった。

 終戦から20年たった1965年、私は中学生になっている。前の年に、東京オリンピックがあり、東海道新幹線が走り、海外旅行が自由化されている。中学の教師たちは、当然、全員戦争を知っている。1965年に30歳なら、終戦時10歳だ。40歳の男なら元日本兵だったかもしれない。授業を中断し、「オレは、最後の特攻隊員だった」という話をした教師は、まだ40前だったはずだ。戦中・戦後をよく知っている世代が東京オリンピックを見たから、「あんな悲惨な日本が、こういう晴れの舞台に・・・」と感動したのだろうが、もちろん私はそういう感動を共有できない。

 石原裕次郎の映画「太陽への脱出」(1963)にも、鶴田浩二高倉健の「東京ギャング対香港ギャング」(1964)にも、海外残留日本兵が出てくる。考えてみれば、出演者もスタッフも、全員が戦争を知っており、元兵士も多くいたはずだと気がついて、そういう時代だったのだと改めて気がついた。