1569話 カラスの十代 その2

 

 中学生になり、算数が数学と名前が変わったが、だからといって心を入れ替えて勉学に励んだということはない。数学の授業が始まると、記憶回路の入り口にシャッターが下りて、「入室禁止」になってしまう。1年生、2年生と、そうやって生きてきたのだが、3年生になって事情が変わった。赴任してきた老数学教師は、かんしゃく持ちで粘着質、何かが気に食わないと、突然狂気となって怒鳴り出すのはヤクザのようだった。野球で言えば千本ノックのように、徹底的に個人攻撃をする。授業中にも大声で怒鳴り始めるから、近くの教室ではあまりにうるさくて、授業不能になると教師が嘆いていた。

 数学の出来が悪い私は標的になった。全教科ができない生徒は無視されたが、「できる教科」がある私は、怠け者と思われた(まあ、事実そうなのだが)。怒鳴りまくる数学教師の拷問から逃れるために、登校を拒否するという手段にはでなかったが、毎日がユーウツでノイロゼ気味になってきた。そこでとった私の態度は、今思い出しても恥ずかしく、自己嫌悪に陥るのだ。自分が、数学教師の標的にならないようにするために、こちらから教師に近づいた。放課後にその教師の姿を見かけると、たいして疑問に思ってもいない事柄を、「先生!」と近づき質問した。権力にぺこぺこして近づくゴマすり野郎である。精神を安定させて毎日登校するには、これ以外の方法を思いつかなかったのだ。中学時代の恥ずかしくも憂鬱な思い出である。だから、中学時代の私が大嫌いだ。同級生たちも、きっと「教師に気に入られようとゴマをする嫌なヤツだ」と思っていたに違いない。

 中学3年生になり、進学先を決めなければならなくなった。私は、高校に行ってまで数学に苦しめられるのは嫌だから、「高校へは行かない」と言った。それが、いわば私の第1志望だった。中学生になったときから神田神保町に通い、古本漁りをしていたから、このままそういう生活が続けられたらいいなあという思いで、「研究生活を始めたい」と思った。想像で言うのだが、神保町に通うような少年は、文学青年予備軍で、日本や世界の文学を読み漁っているか、あるいは昆虫とか天体とか岩石とか、特定分野のマニアのような少年のような気がするが、私はそういう少年ではなかった。カネがないから、古本屋の店頭ワゴンを漁り、新書と小説ではない文庫を買い集めた。そういう関心がのちに文化人類学社会学、海外旅行史やジャーナリズムへとまとまりを見せ、今日に至るのだ。だから、「研究」といっても、特定の分野が見えていたわけではない。毎日本を読んでいるのが「研究」だと思っていたフシがある。

 中学生のバカ頭では、生活のことはまるで考えていなかった。ふた月に1回くらい神保町で古本屋を巡り、毎日好きな本を読んでいられればそれでいいとしか考えていないから、生活費をどう稼ぐということは眼中にも脳中にもなかった。しょっちゅう神保町には行きたいのだから、引きこもりではないが、ずっとゲームをやっているガキとあまり変わらない志向だったのかもしれない。

 「中学を卒業したら、働きます」といえば、親は、「高校くらいは行きなさい」と言うだろうが、やりたいことを説明すれば、子供の自主性を重んじる親だから、「それなら、好きにしなさい」と言っただろう。しかし、私には、宮大工になるとか陶芸家になるというように、高校には行かないが、その代わりにやりたい明確な目標があったわけではないし、高校へは行けない金銭的事情があったわけではない。

 要するに、もうこれ以上数学とつきあいたくなかったのだ。数学に、つきまとわれたくなかったのだ。

 

 

 

1568話 カラスの十代 その1

 

 前々回の「モノを知らない私です」で、高校時代の落ちこぼれぶりに触れたら、突然、カラスに囲まれた日のことを思い出した。

 私は中学3年生だった。

 そのときのカラスとは、学生服姿の集団だった。私立男子校を受験したその日、試験会場も、廊下も階段も、黒い服を着た若者だらけで、いままで体験したことのない異様な光景だった。合格するために受験しているというのに、この高校には絶対に行きたくないと思った。

 中学までは、そこそこ成績優秀な生徒だった。「そこそこ」の意味は、上の下か、中の上という程度で、「まあまあ」と言い換えてもいい。トップクラスに入れなかった原因は、算数にあった。

 今でもよく覚えているのだが、小学校2年生の時だった。算数ができなかった。計算ができないというのではなく、そもそも算数に取り組む気がまったくないのだ。数字を目にするだけで、逃げ出したくなるのだ。授業中にあまりに算数ができないので(やる気がないので)、「放課後、残って自習しなさい」と教師に叱られたのだが、その時の気持ちをことばにすれば、「算数なんか、バカらしいこと、やってられるか、こんなもん!」だから、さっさと下校した。悪いことに、担任教師は我が家からそれほど離れていない場所に住んでいて、我が家の前を通って帰宅するのだ。教師の言いつけを守らなかったということが、よほど腹に据えかねたのだろう、もう暗くなった夕刻、教師は我が家に立ち寄り、母に事情を話した。その光景も、よく覚えている。

 母が烈火のごとく怒ったという記憶はないが、忙しい中、家庭教師となって、バカ息子に算数を教え始めた。私は、注射も苦い薬も夜中のトイレも平気だったが、算数の教科書を広げて座っていることだけで苦痛だった。世の中に、算数ほど嫌いなものはないと思った。

 数字が苦手というのは、今でも続いている。英語のニュースで、「1965年の2385トンの生産が1970年になると・・・・」というように数字が多く出てくると、とたんに「聞く耳」を持たなくなる。脳が空白になるといえばいいのか、とにかく数字を拒否するのだ。これはタイ語でも同様で、話に数字が出てくると、途端にアホになる。タイには算用数字のほかに、タイ文字の数字があるのだが、何度覚えようとしても、すぐに忘れる。

 話は戻って、小学生の私だ。

小学校3年生で、奈良の山奥から首都圏に引っ越した。山里の村立小学校と比べれば、首都圏の小学校のレベルは追い付けないほど高いのだろうと覚悟していたのだが、3年生で学ぶことになる算数は、山里ですでにやったことばかりだった。だから、私はたちまちダントツの成績優秀者になった。のちにわかるのだが、その山里には若者が働ける仕事などほとんどないから、里を出て立派に働けるようにという意図で、教育に非常に熱心だった。子供だけでなく、成人教室などの活動も盛んだった。そのせいか、私が入学した村立小学校の卒業生は、大卒者がけっこう多いらしい。教育が身を立てるという村の教えである。

 村の普通の小学生だった私は、首都圏の学校では抜きん出て優秀だった。しかし、そんなアドバンテッジなど、たちまち追いつかれて、最優秀の小学生はすぐさまそこそこに優秀な小学生になり、そこそこに優秀な中学生になった。

 

 

1567話 テレビの雑談

 

 ユン・ヨジョンがアカデミー助演女優賞を受賞した韓国映画「ミナリ」。ミナリと言えば思い出すのは、マンガ『美味しんぼ』だ。ミナリは「ニラに似た韓国の野菜」という解説がついていたが、ミナリはセリのことだ。セリとニラの区別がつかない人物が、そのマンガの原作者だという話は、348話で書いた。

              ☆

 テレビドラマはプライムタイムよりも深夜帯のほうがおもしろい。大地真央が主演のフジテレビ深夜ドラマ「最高のオバハン 中島ハルコ」(東海テレビ制作)の第3話を見ていたら、結婚詐欺を企てる男の役名が「小室敬」。やりやがったな。原作は林真理子だが、原作もこの名前か?

              ☆

 視聴率常時上位番組「ポツンと一軒家」は、ちょっと胡散臭いなと思っていたら、やはりそういう書き込みがあった。それは、「偶然にも」や「たまたま」が実に多いということだ。いまの日本の村や小さな町を歩けば、表に人が出ていないのは常識だ。いまはもう見なくなった「鶴瓶の家族に乾杯」では、路上で出会った人に声をかけたくても人がいないというシーンの連続だった。純農村の小集落で、いつもなぜか「たまたま」人に出会うのだ。また、訪ねて行った家が、「普段は住んではいないんです。時々来て、手入れをしているんです」というシーンに、いつも「たまたま出会う」。そして、取材時に、「たまたま」ほかの家族が訪ねてくる。テレビ番組はカネがかかっているから、「たまたま」を期待しては制作できないのだ。

              ☆

 橋田寿賀子がなくなって、追悼番組で「おしん」のダイジェスト版を放送していた。10年ほど前か、何回目かの完全再放送で、録画しそこなった第1話を除いて全編を見たと思い込んでいたのだが、見た記憶のないシーンがあった。どうも、前半に見落とした回があるようだ。

 1983年から84年にかけて放送したNHK連続テレビドラマ「おしん」は、放送していた時から大評判だと知ってはいたが、毎日ドラマを見るというような習慣はないし、興味もなかった。「ちょっと、見てみたいな」と思ったのは、1990年代に入り、タイ人と音楽の本を書こうとしていた時だ。時の大歌手、プムプワン・ドゥワンチャン(1961~1992)が新聞のインタビューに、「私の人生は、おしんのようです」と語っているのを読んで、「おしん」を見たくなった。タイだけでなく、アジア各地で「おしん」が大人気という噂は耳に届いていた。

 それから長い年月がたち、「おしん」を見た。なるほど、そうか。日本では過去の話が、アジアの多くの国々では現代劇だとわかる。貧しい農村で生まれた女の子は、街に出て女中になる。寝床とめしがついているからだ。都会生活に慣れてくると、24時間勤務の女中稼業が嫌になり、縫製工場か美容院で働く。悪い男や、悪い家族につかまると、もっとカネを稼ぐために水商売の世界に入ったり、体を売ることになる。ごくごくまれに、プムプワンのように大成功することはある。「おしん」で描かれたことは、1990年代のバンコクでよく見聞きしたことばかりだ。歌手スナリーは縫製工場で働いていた。

 1993年に来日したモーラム(伝統的な発声で歌う歌)の歌手プリッサナー・ウォンシリの風采は、屋台のお姉さんのようだった。「歌手で食えるようになるまで、なにをしていたんですか?」と聞いたら、「工事現場にいたわよ。ブロックやセメントを運んでいたわよ」と言って、笑った。きゃしゃな体で、よくもそんな肉体労働をとは思うが、バンコクの工事現場で働く女性を多く見ているから珍しくはない。

 「支度をしなきゃいけないので・・・」というので、楽屋のインタビューを終えてホールの客席に向かった。

 20分後、彼女がステージに現れた。ウソだろ、とんでもない美人だ。そういえば、「ミス・タイランド・ビューティー・コンテスト」の優勝者でもあるという経歴を、すっかり忘れていた。楽屋では、市場で果物を売っていてもおかしくない服装と雰囲気だったからだ。

 20分あれば、女は別人になる。女は化ける。プロは、徹底的に化ける。恐ろしい存在である。

 

1566話 モノを知らない私です その6

 

 欠点のもうひとつは、著者がアメリカやフランスで研究生活をした大学教授だから、音楽や映画や出版の話になると、粗が目立つ。ライターである私の目からは、書かなかった穴は大きく見える。フランス音楽と日本人を語るなら、丸山明宏(現・美輪明宏)をはじめとするシャンソン歌手の存在は長いページにわたって書かれるべきだ。石井好子シャンソン歌手ということのほか、1950年代のパリ在住日本人や日本人旅行者の世話役的立場だったことや、テレビ出演や出版での活躍など特筆するべき存在だろう。私のこのブログでも、石井好子のことは235話以降何回かわたって書いているので、興味がある人はちょっと深入りしてください。

 フランスの素人である私でもこの程度のことは書くのだから、真っ向から「フランスかぶれ」を取り上げるなら、石井好子を高く評価しなければいけない。店で言えば、銀巴里やキャンティにも触れたほうがいいだろう。

 出版で言えば、翻訳家の朝吹登水子と娘の由紀子の名がまったく出てこないのは変だし、このふたりを紹介するなら、サガンボーボワールの著作は日本の「フランスかぶれ」諸嬢との関連で重要人物だろう。『開高健のパリ』が出版されたばかりだが、開高健を読んでいれば、彼はかなりの「フランスかぶれ」だったとわかる。

 映画の話なら、東和商事(現・東宝東和)を設立し、「自由を我らに」(1931)、「巴里祭」(1932)、「望郷」(1937)などを輸入した川喜多長政の存在に、この本ではまったく触れていないことにも不満だ。川喜多の長女、川喜多和子が副社長を務めたフランス映画社のことも触れておく必要があるだろう。

 東京以外の人にはなじみがないだろうが、1931年創立のアテネ・フランセに関しても、数ページの記述があってしかるべきだろう。フランス語教育だけでなく、フランス映画の上映や、講演会などを開催してきた。

 音楽の話で、コンセルバトワール(フランス国立音楽学校)を卒業した日本人を取り上げているが、いずれもクラシック界の人物だけで、服部克久・隆之父子や加古隆の名はない。音楽と言えば、いわゆるフレンチポップに関してはアダモの名があるだけだ。シルビーバルタンの歌や、彼女やアラン・ドロンが出演したテレビCMの話も出てこない。

 つまり、大学教授レベルの学術的フランス志向に深く触れても、日本に多くいる「フランスかぶれ」への言及はない。バブル時期に、パリで高価な商品を買いあさるブランド愛好諸嬢たちの好みや、料理もブランド品もフランスからイタリアに移っていくような話題も、この本にはない。「フランスかぶれ」どころか、フランスにまったく興味のない私でも、「日本人の異文化憧憬」というテーマを頭に描くと、見えてくるものはいくらでもある。素人に欠点を簡単に指摘されるような内容では、世の「フランスかぶれ」を満足させるような本にはとうていならない。

 『“フランスかぶれ”ニッポン』は、このように欠点が数多くあるのだが、それでもこういう本が出ただけでも良しとしようか。

 ただし、デジタルでは実に興味深い情報があるので紹介しておきたい。日本とフランスの国立図書館が共同で、共同電子展示会なるものを立ち上げて「近代日本とフランス」展を作り上げた。コラムもおもしろいが、なんといっても「年表」がおもしろい。この年表に肉付けをしていけば、私でも楽しめる「フランスかぶれ」物語になるだろう。

 もし、今、雑誌「旅行人」があれば、誰かが連載で「インドかぶれ 日印交流史」を書いたら、中高年のインドファンは喜ぶだろう。「かぶれ」の研究は、おもしろいのだ。

 今回で、「モノを知らない私です」の話は終わる。

 

1565話 モノを知らない私です その5

 

 前回、日本人女性のヨーロッパ志向、とくにパリ志向(趣向)について、過去に調べたことを確認しながら久しぶりにおさらいしてみた。

 日本人の「フランスかぶれ」ではなく、「パリかぶれ」が問題なのだと指摘した本がある。日本人女性の「パリかぶれ」の結果発症する精神的な病を論じたのは、パリ日本大使館勤務の医師が書いた『パリ症候群』(太田博昭)だ。これはカルチャーショック本の傑作である。憧れの地はフランス全土ではなく、パリ限定だという分析だ。パリにあこがれ、フランスの本を読み、フランス語を学んでパリにやってくると、現実のパリは夢に描いた「花のパリ」とあまりにも違い、精神的に不安的になっていき、病を発症するというのだ。

 通常の異文化ショックというのは、言葉が通じない土地で孤独な生活をしているうちに、精神の安定が失われるのだが、「パリ症候群」というのは、ある程度はフランス語ができる人が患者になる。患者の多くが女性という特徴もある。そういう病は、ロンドンでもニューヨークでもなく、そしてフランスのほかの都市でもなく、パリなのだという論文だ。パリは、ほかの街とは違う、特別な街だという日本人女性たちの話だ。

 「パリかぶれ」の本はそれしか読んだことがないので、「フランスかぶれ」の本はないかとネット検索してみたら、なんとそのものずばりの本が見つかった。『「フランスかぶれ」の誕生 〔「明星」の時代 1900-1927〕』(山田登世子)は、その書名どおり、大正時代あたりに焦点を絞っている。リンクでアマゾンの画面を見れば、その目次から雑誌「明星」でフランスにあこがれた人々のことがわかる。私の興味からは、狭いし古い。ちゃんとした本のようだが、私の興味の範囲で言えば、今読む本ではないだろう。 

 その点、こちらはおもしろそうだ。『“フランスかぶれ"ニッポン』(橘木俊詔)は、守備範囲も広く、戦後にまで言及しているようなので、読みたくなった。フランスとインドはかぶれやすい土地なのかもしれないなどと思った。アマゾンの画面で、この本の内容と著者の情報がつかめるので、ここで多くの説明はしない。

 こんなことを書いているうちに、注文しておいた『“フランスかぶれ”ニッポン』(橘木俊詔 たちばなき・としあき)がたちまち届いた。著者は1943年生まれの経済学者でアメリカとフランスで長期滞在経験がある。「フランスかぶれ」は著者の自称でもあり、「何を隠そう、フランスかぶれの筆者のフランス論」がこの本だと「はじめに」で書いている。

 読みかけの本を脇に置き、すぐさま『“フランスかぶれ”ニッポン』を読んだ。不満は大いにあり、そのことはいずれ書くが、ひとまずはその発想と努力を認めたいと思う。この本は、経済学者が自分の専門を離れて、フランスと日本を幅広くさらってみようというものだ。「経済学者だから、経済のことしかわかりません」などという専門バカ宣言はしない。私が理想とする「できる限り広く」という試みは成功しているのだが、そうなれば、ジグソーパズルのピースがいくつも行方不明になる。専門領域を守り、108ピースのパズルをやれば簡単に完成度の高い本が書けるのに、無謀にも手を広げて2000ピースのゲームに挑んだようなものだ。

 この本の欠点は、ふたつある。ひとつは、著者はフランスの勉強が楽しくて、原稿を書いているうちに、ついついフランス概論の勉強ノートのようになってしまった。専門ゆえに筆が進んでしまったのだろうが、フランスの経済学の話になるとブレーキがかからない。「ケネーの重商主義」だの「ワルラス一般均衡理論」などという小見出しで、フランス人の研究紹介が長々と続く。フランスの学者の研究が、日本の学者に影響を与えたとしても、それだけで「フランスかぶれ」の説明にはならない。これでは、一般読者はもちろん、普通の「フランスかぶれ」でも、興味深く読み進める気が失せるに違いない。

 「フランスかぶれ」を語るのに必要な、「日本におけるフランス文化受容史」の部分があまりにも少ないのだ。『フランスを知るための50章』のような本になってしまった。

長くなりそうなので、もうひとつの欠点の話は、次回に。

 

 

1564話 モノを知らない私です その4

 

 自動車や都市交通の話をしたように、まったく興味のない分野でも、あることをきっかけにしばらくその世界に分け入ることがある。

 日本人の外国旅行を、「外国へのあこがれ」という視点で戦後史を振り返ってみると、普段はまったく興味のないファッションが気になったことがある。

 1945年に戦争が終わって、進駐軍がやってきて、日本はたちまち「アメリカ風」が人気を集めた。「気分は、進駐軍」だ。ジャズであり、映画であり、食べ物だ。もちろん、日本全土ではなく東京など大都会と、米軍基地のある街だけのことだが、アメリカ文化が日本を包んだ。ファッションも、アメリカ風が人気となった。既製品などあまりない時代だから、洋裁の腕がある者は、アメリカの雑誌に載っている写真を見て、型紙を作り、雑誌の付録にしたりした。ワシントンハイツなど米軍住宅などから回収された古雑誌が、アメリカ文化の情報源だった。英語ができる者は、小説やエッセイを勝手に翻訳して、日本の雑誌に載せて原稿料を稼いだ。

 かつて、神保町にはそういう雑誌を扱う古書店があり、おもな顧客は編集者やカメラマンやデザイナーたちだった。米軍基地や軍人の住宅から集められた雑誌だから、当然、「PLAYBOY」誌も無修正だった。

 「アメリカのファッション万歳!」の時代に終わりが訪れるのは、1950年代初めで、直接の関係はないのだろうが、日本が進駐軍から独立するころだ。デパートなどでたびたびファッションショーが開催されて、フランスのデザインが話題になるなか、1953年に、文化服装学院創立30周年記念行事として、クリスチャン・ディオールのファッションショーが帝国ホテルなど何か所かで開催された。ディオール自身は来日しなかったが、フランスからモデルが来日した。入場料は最低でも1000円でプレミアがつき4000円くらいの値がついたが大人気だったという。ちなみに、この時代の歌舞伎座の桟敷席は800円だった。「ファッション立国」を企てるフランス政府の後援があったらしい。

 1954年には、三越ディオールサロンが開設され、オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」が日本で公開された。同年、ヘップバーンの「麗しのサブリナ」で、フランスのデザイナー、ジバンシーが衣装を担当し、ファッションもロケ地もパリというヘップバーン作品が次々に公開され、日本人女性の意識がアメリカから「あこがれのパリ」へと強く印象づけた。1959年には高島屋ピエール・カルダンとライセンス契約を結んだ。こうして、1950年代に、日本人女性の関心はアメリカからフランスやイタリアに引き付けられるようになる。

 ちなみに、ジバンシーが衣装を担当したオードリー・ヘップバーンの出演映画のリストとおもな舞台となった場所を書いておく。

「昼下がりの情事」(1957)パリ

「パリの恋人」(1957)パリ

ティファニーで朝食を」(1961)ニューヨーク

シャレード」(1963)パリ

「おしゃれ泥棒」(1966)パリ

 一方、日本の男たちは、ジャズ、羽の生えたでかい自動車、プレスリー、ロックンロール、ジャームス・ディーン、リーゼント、Gパンの1950年代から60年代のアメリカへ、そして1976年創刊の雑誌「ポパイ」(平凡出版)が作り上げた「アメリカ西海岸ブーム」に乗せられ、アメリカに対する羨望意識が増大されていった。当時の平凡出版は、今のマガジンハウスである。

 そもそも「ポパイ」は、「anan別冊 Men's anan  POPEYE」として誕生し、“Magazine for City Boys”がサブタイトルの雑誌だった。「ポパイ」が売れたので、1981年にその少女版を創刊した。それが、やはりアメリカ西海岸雑誌「Magazine for City Girls  Olive」だったのだが、女の子にアメリカ情報はまったく受け入れられず、82年から「Magazine for Romantic Girls  Olive」となって、ヨーロッパ志向の雑誌になった。

 「anan」「non-no」はもともとヨーロッパ志向の強い雑誌だった。「ポパイ」の前の時代、青少年たちは「平凡パンチ」を読んでいた。その「平凡パンチ」の女性版として企画されたのが、フランスのファッション雑誌「ELLE」の日本語版、「anan ELLE  JAPON」である。1970年のことだ。平凡出版のマネ雑誌を出すのが得意技である集英社は、「anan」創刊の1年後、「ヨーロッパ特派取材」が載っている「non-no」を創刊する。

 日本人女性はすでにヨーロッパを志向していたから、「Olive」でアメリカの方に向かわせようとしても無理だったのだ。

 ファッションについてさらに調べると、パリファッションにフォークロアエスニックの流行があり、ファッションショーの会場で流れる音楽も含めて、「異郷へのあこがれ」が刺激されていくのだから、旅行史研究のテーマにもなる。

 というわけで、フランスにもファッションにもまるで興味がないというのに、調べてみたいことがいくらでも出てきて、しばらくつきあうことになった。私には、こういうことがしばしばおこる。まるで知らない分野だから、短期間だが本腰を入れて調べたくなるのだ。

 

 

1563話 モノを知らない私です その3

 

 自動車だけでなく食べ物のことも同様で、私の関心は多くの人の興味とは違う方向に向いているようだ。『東京ラーメンガイド』といった本や、著名人が書いた食エッセイやお料理本などにはほとんど手を出さないが、食文化の本はある程度持っている。ラーメン屋情報はいらないが、「ラーメンにチリレンゲがつくのはいつからなのか」といった資料があまりない分野には、大いに興味がある。若い人は知らないだろうが、その昔、ラーメンにはレンゲやサジはついていなかった。タンメンやチャーシュー麺にはついていても、ラーメンにはつかないというのがほぼ常識だったという記憶がある。私の、1960年代の思い出だ。あるいは、ラーメン屋に「カウンターがあるのは当たり前」となるのはいつ頃からか、さらにそもそも食堂や居酒屋などのカウンター席はいつからなのかなどと調べると、好奇心がどんどん刺激される。

 イタリアやスペインのバルbarというのは、法廷で傍聴席との間にある仕切りのことで、のちに酒場の意味で使われるようになった。話が脇道にそれるが、その昔、ニューヨークの弁護士へのインタビューの中で、「ボクもライターの仕事をしているんだよ。“Bar Review“って雑誌で連載しているんだ」というので、「酒場巡りが趣味なのか」とは思ったが、その話には深入りせずにインタビューを続けた。宿に帰ってから辞書で確認すると、barには「弁護士」の意味もあることを知った。だから、Japan Federation of Bar Associationsは、日本弁護士連合会のことだ。

 話を戻す。飲食店のバルは、カウンターがあることが重要だ。カウンターをはさんで、客は立ったまま飲み食いする。アメリカでもバーにはもちろんカウンターがある。客が椅子に座ってカウンターで飲食できるのが、アメリカ映画ではおなじみのダイナーだ。こうやって好奇心を全開すれば、「飲食店のカウンター」だけで、博士論文になるほど深い話になる。すし屋はもともと屋台で、のちに屋内でも営業になる。客がすし屋で座って食べるようになるのは明治末頃かららしい。スペインはバスク地方の軽食ピンチョの専門店のなかには、カウンター席に椅子を用意している店もある。日本の立ち食いそば屋は、近年椅子席が増えている。こういった具合に、日本と外国のカウンターの研究だ。

 そういえば、と今、別の興味が湧き出してきた。田中邦衛の訃報を耳にして、「ラーメン」を思い出した。テレビドラマ「北の国から」の、ラーメン屋の名シーンが気になって、あの店のラーメンにレンゲがついていたかどうか確認したくなった。調べてみると、名シーンだからネット上に動画が載っている。レンゲは、ある。こんな好奇心を、すぐに調べることができる時代なのだ。

 このように、自動車に関しても、食べ物に関しても、大多数の関心分野と私の関心方向が大きくずれているのだとわかる。だから、私が書く本は売れないのだ。

 私が「世間の話題」に疎いのは、「世間の動きについて行こう」という意識がないからだ。「皆様と同じように勉強しよう」という意思がないのだ。いまはもうあまり使われないようだが、ひと昔前の広告のキャッチコピーに「時代に乗り遅れるな!」とか「世間の流れをつかめ!」などというものがあったが、そういう広告に私が踊らされることはない。本のベストセラーやヒット曲に手を出さないのは、もしかすると、そういうことに疎くても生きていけるライターだからかもしれない。会社員なら同僚や取引先の相手と、「あの本、売れているらしいですね」などと言いつつ、ベストセラー本を話題にしたり、接待でカラオケに行き最新ヒット曲を歌ったり、酒を飲みながら野球やゴルフや週刊誌の記事の話を、好き嫌いにかかわらず、するのだろう。しなければいけないのだろう。

 そんな知識を仕入れなくても、私の仕事に支障はない。今までずっと、「興味のないことはしない」という世間知らずな生き方を続けてこられる境遇にあった。幸運である。

 しかし、と思う。大昔から、「今の若者は何を考えているんだ」とか「今の若者は、すっかり変わった」と言われることが多いのだが、昨今はこういう例をあげて、若者たちはおっさんたちから批判されている。「酒を飲まない。会社の宴会を嫌う。年賀状・お中元・お歳暮を送るという発想がない。自動車に興味がない。野球に興味がない。競輪競馬に興味がない。タバコを嫌う。テレビを見ない。大河ドラマを見ない。麻雀を知らない。パチンコをやらない」などなど。つまり、若者はかつての「おっさん的な嗜好」から離れたがっているのであり、私はその先駆的存在だと言えそうだ。