1563話 モノを知らない私です その3

 

 自動車だけでなく食べ物のことも同様で、私の関心は多くの人の興味とは違う方向に向いているようだ。『東京ラーメンガイド』といった本や、著名人が書いた食エッセイやお料理本などにはほとんど手を出さないが、食文化の本はある程度持っている。ラーメン屋情報はいらないが、「ラーメンにチリレンゲがつくのはいつからなのか」といった資料があまりない分野には、大いに興味がある。若い人は知らないだろうが、その昔、ラーメンにはレンゲやサジはついていなかった。タンメンやチャーシュー麺にはついていても、ラーメンにはつかないというのがほぼ常識だったという記憶がある。私の、1960年代の思い出だ。あるいは、ラーメン屋に「カウンターがあるのは当たり前」となるのはいつ頃からか、さらにそもそも食堂や居酒屋などのカウンター席はいつからなのかなどと調べると、好奇心がどんどん刺激される。

 イタリアやスペインのバルbarというのは、法廷で傍聴席との間にある仕切りのことで、のちに酒場の意味で使われるようになった。話が脇道にそれるが、その昔、ニューヨークの弁護士へのインタビューの中で、「ボクもライターの仕事をしているんだよ。“Bar Review“って雑誌で連載しているんだ」というので、「酒場巡りが趣味なのか」とは思ったが、その話には深入りせずにインタビューを続けた。宿に帰ってから辞書で確認すると、barには「弁護士」の意味もあることを知った。だから、Japan Federation of Bar Associationsは、日本弁護士連合会のことだ。

 話を戻す。飲食店のバルは、カウンターがあることが重要だ。カウンターをはさんで、客は立ったまま飲み食いする。アメリカでもバーにはもちろんカウンターがある。客が椅子に座ってカウンターで飲食できるのが、アメリカ映画ではおなじみのダイナーだ。こうやって好奇心を全開すれば、「飲食店のカウンター」だけで、博士論文になるほど深い話になる。すし屋はもともと屋台で、のちに屋内でも営業になる。客がすし屋で座って食べるようになるのは明治末頃かららしい。スペインはバスク地方の軽食ピンチョの専門店のなかには、カウンター席に椅子を用意している店もある。日本の立ち食いそば屋は、近年椅子席が増えている。こういった具合に、日本と外国のカウンターの研究だ。

 そういえば、と今、別の興味が湧き出してきた。田中邦衛の訃報を耳にして、「ラーメン」を思い出した。テレビドラマ「北の国から」の、ラーメン屋の名シーンが気になって、あの店のラーメンにレンゲがついていたかどうか確認したくなった。調べてみると、名シーンだからネット上に動画が載っている。レンゲは、ある。こんな好奇心を、すぐに調べることができる時代なのだ。

 このように、自動車に関しても、食べ物に関しても、大多数の関心分野と私の関心方向が大きくずれているのだとわかる。だから、私が書く本は売れないのだ。

 私が「世間の話題」に疎いのは、「世間の動きについて行こう」という意識がないからだ。「皆様と同じように勉強しよう」という意思がないのだ。いまはもうあまり使われないようだが、ひと昔前の広告のキャッチコピーに「時代に乗り遅れるな!」とか「世間の流れをつかめ!」などというものがあったが、そういう広告に私が踊らされることはない。本のベストセラーやヒット曲に手を出さないのは、もしかすると、そういうことに疎くても生きていけるライターだからかもしれない。会社員なら同僚や取引先の相手と、「あの本、売れているらしいですね」などと言いつつ、ベストセラー本を話題にしたり、接待でカラオケに行き最新ヒット曲を歌ったり、酒を飲みながら野球やゴルフや週刊誌の記事の話を、好き嫌いにかかわらず、するのだろう。しなければいけないのだろう。

 そんな知識を仕入れなくても、私の仕事に支障はない。今までずっと、「興味のないことはしない」という世間知らずな生き方を続けてこられる境遇にあった。幸運である。

 しかし、と思う。大昔から、「今の若者は何を考えているんだ」とか「今の若者は、すっかり変わった」と言われることが多いのだが、昨今はこういう例をあげて、若者たちはおっさんたちから批判されている。「酒を飲まない。会社の宴会を嫌う。年賀状・お中元・お歳暮を送るという発想がない。自動車に興味がない。野球に興味がない。競輪競馬に興味がない。タバコを嫌う。テレビを見ない。大河ドラマを見ない。麻雀を知らない。パチンコをやらない」などなど。つまり、若者はかつての「おっさん的な嗜好」から離れたがっているのであり、私はその先駆的存在だと言えそうだ。