1583話 カラスの十代 その16

 

 昔のことを書いていると、思いだそうとしなくても、過去のいろいろな情景や言葉のやり取りが、どくどくと湧き出して来る。記憶を封印したわけではないが、干からびた地表を押し破り、思い出の地下水が湧き出して来る。

 その編集者と再会したちょっとあとのことだった。夜の新宿の路上で、偶然その編集者と出くわしたことがあった。

 「こんな時間まで、何をしてたの?」と聞くから、「タイ料理を食べていたんだよ」と言った。

 「タイって言っても、どうせようしょくだろ」

 「いや、タイ料理だよ」といったが、話がかみ合わない。「ようしょく」の意味がわからないから聞き返したのだが、彼は「養殖」のことを言い、貧乏な私は天然のタイなんか食えないだろと言いたいらしいとなんとか想像できたのだが、私は「洋食」と聞こえたから、話が通じなかったのだ。その夜、私がタイ料理を食べたのは開店してまだ間もない歌舞伎町のバンタイで、1985年のことだ。私が知る限り、1980年代前半まで、つまり1984年の時点で、日本で営業していたタイ料理店は4軒か5軒しかなかった。だから、普通の日本人には「タイ料理」は鯛料理か、台湾料理の言い間違いと思われるような時代だった。「タイ料理」という文字を見ても、タイという国の料理とはわからなかっただろう。そういう時代だ。

 あのころ、タイ料理のことが書いてある日本語資料は、タイムライフの「世界の料理」シリーズの『太平洋/東南アジア』(1974)くらいしかなく、タイに行ってもタイ料理の資料は英語でもタイ語でも、ほとんどなかった。だから、私も森枝卓士氏も、五里霧中の手探りで、タイの食文化を調べていたのである。そんなことを書いていると、若者に「なぜインターネットを使わなかったんですか?」なんて言われそうだ。それほどの、隔世の感がある。

 そんな時代だったなあと昔を思い出していると、あっ、今、また別のことを思い出した。1970年の高校3年生の時だ。

 高校時代、授業があまりに退屈だと、いろいろな遊びを考えていた。教師のプライドを考えて、堂々と本を読むことはしなかったが、ノートに何かを書くことはしていた。ある日のこと、「もしも、クラスのアイツが本を書いたら」という発想で、新聞1面下の、「さんやつ」(3段8割)とか「さんむつ」(3段6割)と業界で呼ばれる書籍広告を創作したことがある。運動部で活躍しているヤツはスポコン人生相談本とか、日ごろの言動をネタに架空の本を作り上げた。授業が終わって級友に見せたら、ささやかな笑いがあった。その広告を眺めながら、「重版出来」と記入してにこりと笑ったのが、のちに工事現場で会い、そのあと編集者として出会ったヤツだった。出版の話など一度もしたことがなかったが、当時から出版界に関心があったことがよくわかる。「重版出来」(じゅうはんしゅったい)などとすぐさま書ける高校生は、この学校にはそう多くなく、そのシャレがわかる高校生も、そう多くはなかっただろう。私と彼だけの、出版ギャグだ。

 また、思い出した。同級生にボクシングジムに通っているヤツがいて、その発言や行動をヒントに、ふさわしいリングネームをつけ、ボクサーの栄光と挫折の自伝の書籍広告も作ったことがある。現実の彼は、ボクシングに熱中しつつも受験勉強もちゃんとやり、有名大学に入り、大企業のサラリーマンになったものの、早死にした。線香をあげに行ったときの奥さんの話では、徹底的に遊びまくり、愛人を作り、家族を泣かせた人生だったそうだ。奇しくも、私が企画した本とあまり違わない人生だったようだ。

 

 

1582話 カラスの十代 その15

 

 建築作業員をしていたある日の朝のこと、現場が遠いうえに、現場で使う物を建材店で買ってから行くために、7時に事務所に集まった。2トントラックの助手席に座り、運転をする職人を待った。そのとき、車窓の脇を歩いてきたのが、高校の1年先輩で、何度か話をしたことのある女性だった。ふんわかした雰囲気の人で、誰からも好かれるタイプの人だ。顔見知りだが、窓ガラスを開けて挨拶をするのはやめた。彼女の隣りを歩いているのは、やはり高校の上級生で、ひとことふたこと話をしたことがある人だ。友人が「あの人は中央大学法学部に進み、弁護士になる人だ」と言っていたのを思い出した。生徒会長と副会長のようなそのふたりが、朝の7時をちょっと過ぎた時刻に、路地を歩いている。私は助手席で背を低くし、彼らの視界に入らないようにした。夜の街で見かけたのなら、「ああ、デートか」と思うだけだが、早朝というのがなんともなまめかしかった。

 この話を書いていて、別の遭遇も思い出した。ある日の工事現場は住宅の庭工事だったのだが、家から出てきたのは高校の同級生だということがあった。手を挙げながら、「おう!」と挨拶すると、作業着姿で、髪とヒゲを伸ばし、度付きサングラスをかけ、地下足袋に鉢巻姿に変貌している元高校生を見て、数秒の間をおいて私だと気がつき、ヤツも「おう」と応えたものの、やはり少々驚いたようだ。それ以上に善良なる息子がこの労務者とタメ口でしゃべっていることに母親はもっと驚いたようだ。

 その級友とはずっとのちに、ライターと編集者として再会する。雑誌「本の雑誌」の投稿欄にヤツの名前があり、私も投稿していたことがあるので、どちらからか連絡したのかもしれないが、確かな記憶はない。ハガキのやり取りがあって、電話をして、再会した。ヤツは食品関連の専門出版社の編集者で、その編集室で雑談をした。私は食文化に興味のあるライターになっていたが、まだ本は書いていない。高校を卒業してから、15年ほどたっていた。

 昔のよしみで、ちょっとした稼ぎになるルポの仕事をくれたのだが、打ち合わせをした翌日、父が急に手術をすることになり、その後ホスピスへの移送と言うことになり、せっかくの好意を断ることになってしまった。その雑誌の仕事は、まだ若い知り合いのライターに代役をつとめてもらうことにした。その若者は、のちに私が講師をすることになる立教大学で観光を学び、在学中に旅行雑誌「オデッセイ」に出入りしていた。卒業後就職せずにライターになった。まじめが取り柄だが、本当に自分が書きたいものがなにか見つけられずにいた。「生活費を稼ぐのは大事で、ライターをやっていればどんな仕事ものちのち勉強になるものだけど、しかし、どんな仕事も適当にこなす器用なライターにはならないようにね」と、エラソーにおせっかいを言ったことがある。若きライターに、私の仕事2本の代役をしてもらったのだが、のちにどちらの雑誌編集部からも、「原稿の手直しに手間がかかってね。彼には、まだちょっと無理だったようだね」と苦情を言われてしまった。編集部が求める最低限の水準に、「器用にこなすだけ」の水準にも、まだ達していなかったようだ。

 若きライターは数年後、ロヒンギャ問題を自分のテーマに決めた。当時はまだビルマを自由に取材できる時代ではなかったから、バングラデシュをフィールドに決めた。しかし、そのバングラデシュで取材中マラリアのため突然死んだ。コックスバザールから夜行列車で首都ダッカに戻ったところで体調が急変し、帰国便に乗る体力はもうなく、その日の午後に死んだそうだ。そんなことを、思い出した。

 高校時代の知り合いだったあの編集者の恩は、まだ返していない。

 

 

1581話 カラスの十代 その14

 

 高校の卒業式の翌朝早く、ヤツといっしょに建設会社の事務所に行った。社長にあいさつすると、「今から仕事をすればいいさ」ということで、すぐさま建設作業員になった。建設業の朝は、早い。まだ7時過ぎだが、作業員はすでに来ていて、8時前に現場につけるように準備をしていた。

 作業員といっても、私に何かの技術があるわけではないので、雑用係である。「持って来い」と言われた物を届け、「片付けろ!」と言われた物を片付け、反日穴を掘っているといった作業だが、野外で肉体を動かしているのは楽しかった。こういう仕事は、自分に合っていると思った。ちょっと前まで、「カラスが嫌だ」と思っていたが、工事現場の男の世界は楽しかった。

 我々作業員(私以外のプロは、正確には職人と言った方がいい)は、工務店の仕事として一応何でもやるのだが、基本的には鳶(とび)の仕事だった。鳶の仕事は高いところで仕事をするのだが、小さな工務店では、足場工事や棟上げ、そして基礎工事もやった。常に一定数の作業員を抱えているので、作業内容にかかわらず、社長はさまざまな仕事をとってきた。仕事に慣れてくると、木造住宅の解体作業もやったし、鉄筋を組む作業もやった。家をそのまま移動する曳家(ひきや)の手伝いもやった。いろいろな組の作業員が協力してやる作業で、「お宅んとこの、若い衆、だいぶ変なのを集めたんだなあ」と我が親方に話している声が聞こえた。私は肩よりも髪が長くなっていたし、もうひとりの若者は五厘刈りにしていた。どんな格好をしていようが、仕事をちゃんとしていれば文句は言われない。学歴も賞罰も関係ないが、「ケガと弁当は手前(てめー)持ち、注意しろよ!」とよく言われた。

 私を現場に連れてきたヤツは、いっしょに一週間ほど働いただけで、「オレ、デートが忙しいから」と言って、仕事を辞めてしまった。デート費用を稼いでいただけらしい。現場の先輩たちは皆すばらしく優しい人ばかりで、つらいことは何もなかった。そこで働き、カネができると本を買い、国内旅行をして、しかし「そんなことにカネを使っていたら、外国旅行の費用は貯まらないぞ」と反省し、また地道に働いた。

 早朝の高田馬場や山谷などで、いわゆる「たちんぼ」をして、手配師からの仕事を待てば、かなりの高給を得ることができたらしいが、毎日確実に仕事があったわけではないし、仕事の内容も安全第一と言うものではなかったらしい。それに比べれば、私の仕事は安かったが、毎朝事務所に顔を出せば、何かしらの仕事があった。雨の日でも、倉庫の片づけなど雑用があり、日給を払ってくれた。日給は安いが、ウエイターの日給の5割増しほどで、仕事はいつもあった。

 真夏は足場の鉄パイプが熱くて持てなくなるほどだが、午前の仕事が終わったら、飯を食い、水を浴びて、日陰で昼寝をするのが気持ちよかった。氷雨降る冬は、指がかじかんで物が持てなくなるが、石油缶の焚火で指を温めて働いた。

 現場でさまざまな職種の人たちに会った。大工をはじめ、電気工事や水道・ガス、内装や建具屋などは、実に見事な職人技を見せてくれた。中学卒業後、職人修行を続けて一人前に成長したという人もいたが、バクチで身を持ち崩し、あちこちに借金を作り、現場で問題になっている職人もいた。一流大学を出て、一流企業のサラリーマンになったものの、競馬で借金を作り、会社にいられなくなり、トラックドライバーとして人生をやり直そうとしている人もいた。もっとも、その手の話は職人たちの噂話だから、どこまで本当の話なのかわからない。後年、建築の本を買い漁って読むようになるそもそものきっかけは、この時代の体験に深く関係があるのかもしれない。有名建築家の記念碑的建造物などよりも、設計者の名もわからない世界中のその辺の住宅に興味を持つのは、かつて住宅建築にかかわったからかもしれない。

 仕事は楽しく、精神的にも快適だったが、高所恐怖症の男が高所で作業をする鳶の仕事はやはりおそろしく、「このまま仕事を続けたら死ぬ」と感じて、数年後に地上の仕事に変わった。

 

 

1580話 カラスの十代 その13

 

 密航事件から数か月たち、成績不良の私でもなんとか高校を卒業することができた。温情の数学教師は、「サイコロを振って3が出る確率を求めよ」という問題で、30点くらいの配点をしてくれて、さぼり抜いた生徒たちも、これでなんとか卒業できることになった。

 卒業式には、受験などでそれまでバラバラの生活になっていた級友たちが久しぶりにそろった。

 「おう、しばらく」と声をかけた男とは、夏に都内英会話散歩をやったことがある。ヤツは英語が好きで得意で、外国人と話をしたくてたまらない。そこで、街で西洋人を見かけたら、英語で話しかけ、しばらく会話を楽しむというのだ。私も1度同行したことがあった。ヒマな米軍人(米軍新聞「スターズ&ストライプス」紙での面談時刻までのヒマつぶし)と赤坂見附の喫茶店で雑談。そのあと、イギリス人ビジネスマン(飛行機の出発まで時間をつぶし)と、銀座の喫茶店でしばらく話をした。そのときは、特に何も感じることなく、ただ雑談をしていたのだが、後になって相手の配慮がよくわかった。わかりやすい話題を、わかりやすい英語で、わかりやすく発音してくれたから私にも理解できたのだ。

 のちに、日本在住の西洋人の知人と話をしていて、「喫茶店でも路上でも、しょっちゅう英会話の相手をさせられるのが苦痛でね」とうんざりした顔でしゃべった。「あなたの名前は?」「何歳ですか?」なんていう質問をしょっちゅうされるから、日本人には日本語しかしゃべらないのだと言った。わたしは自分の過去を思い出し、申し訳ないと思った。高校時代の私は、もう少し内容のある会話ができたとは思うが、会話のテンポを崩さずにしゃべることに夢中で、相手のことを考えた会話ではなかった。のちに、私も旅先で子供たちから英会話の相手をやらされたことがあるが、あれは退屈で疲れる。

 あれも3年の夏だったか、月曜の朝の教室で、ヤツはニコニコしながら話しかけてきた。「きのう、旅行中のアメリカの女の子をナンパしたぞ。大成功だ。今度の日曜日にまた会うから、紹介してやるよ」。自分の感激を、誰かに話したくてたまらないらしい。

 ヤツと私は、日曜日の新宿旭町のドヤ街に行き、旅館でヤツ自慢の「金髪の彼女」に会った。その宿は、もともとは労務者用の安宿なのだが、西洋人旅行者が口コミで広め、宿泊客はすべて西洋人だった。日本にゲストハウスなどができるずーっと前のことだ。のちに、バンコクのタイソングリートや楽宮旅社など、ただの安宿であり売春宿だったところに外国人旅行者が集まってしまったという状況に接して、あの旭町の安宿を思い出した。

 旭町のその安宿で、ヤツは「居残り佐平治」となって、器用に宿の仕事をこなしていた。なにしろ、突然外国人がやって来たのだが、英語がわかる従業員がいない。そこで、ヤツが日本語と英語のカードや張り紙を書き、その代わり、宿の出入りは黙認するという約束ができていた。私も、通訳のまね事をやった。高校時代に外国人と話をする機会が何度もあったからか、のちに国内外で、外国人に話しかけられても、「あわあわ、あー」とあわてることはなく、知っている限りの中学英語で対応できた。

 高校3年生の夏は、そういう遊びをしていた。そして、卒業式で、久しぶりにヤツに会い、「おう、しばらく」というあいさつになったのである。

 「ホントは、今日、来たくなかったんだ。仕事を休んで来たんだから」というので、「なんの仕事?」と聞くと、建設工事だといった。その前にゴルフ場でアルバイトをしていて、建設会社の社長と知り合い、「うちの方が給料は多いぞ」という言葉で転職したのだという。

 「カネを稼がなきゃ。旅行資金を作らなきゃ」という決意がもくもくと姿を見せた。外国への旅を、そろそろ真剣に考えよう。「オレも、そこで働けるかな?」というと、「たぶん大丈夫だと思うが、とにかく、明日朝早く駅に来いよ。社長を紹介するから」という。よし、建設作業員だ。稼ぐぞ! 外国へ、ほんの一歩踏み出した。

 

 

1579話 カラスの十代 その12

 

 何と言うことのない朝のはずだった。

 高校の朝はいつも、担任が教室に来て、報告や諸注意を5分ほどおこない、1時限の授業が始まるのだが、その日はなかなか担任がやって来なかった。何かが起こったのかもしれないという予感があり、ほかの教室ものぞいてみたが、どの教室にも担任は来ていなかった。今、あの朝のことを思い出している。私以外の生徒は、せっせと受験勉強をしていたので、担任がなかなか来ないことなど誰も気にかけなかったのだが、私は世間の動きが気になった。何かが起こっているらしいので、その「何か」を知りたかった。だから、ほかの教室の様子を探りに行ったのだが、このあたり、のちにライターになる男の片鱗がうかがえる。

 「もしかして・・・、あれか?」という予想はあった。隣の市に住む高校生が起こした事件だと新聞にあった。我が高校には隣りの市から来ている生徒はいくらでもいるから、その高校生がこの高校の生徒であってもおかしくない。

息を切らせて、担任が教室にやって来た。

 「わが校、始まって以来の、とんでもない事件を起こした生徒がいて、会議が長引いて・・・」とだけ言って、事件の中身には触れず、日常の報告事項をしゃべり、間もなく1時限の授業が始まった。以後、その「事件」に触れることは一度もなかった。

 やはり、あの事件だろう。その朝、新聞を開いて驚いた。隣りの市に住む高校生がアメリカに密航したという記事だった。薄れた記憶をたどり、新聞記事を紹介してみよう。

 その高校生は、「漢文の授業を受けたくないなあ」と思い、父親の背広を着て、家を出た。高校の名前は書いてない。羽田空港に着いたら、フェンスが工事中で、簡単に中に入れた。停まっている飛行機に乗って、アメリカに向かった。あのころは、飛行機にはタラップ(移動式階段)で乗り降りするものだった(日本ではいつごろからボーディング・ブリッジを使うようになったのか調べてみたが、ネット情報ではわからなかった)。

 到着直前(ハワイだったか、アメリカ本土だったのか、記憶にない)に、乗務員からパスポートの提示を求められたが、「持っていない」ということなので、すぐに日本に送還されたというものだった。おそらく、挙動不審とか、乗客がひとり多いとか、飛行中に「何か変だ」と乗務員が気になっていたのだろう。

 休み時間に「取材」すると、あの高校生は、やはり私と同じ高校の同学年だとわかった。事情を知っている生徒がいた。名前もすぐにわかったが、1度も同じクラスになったことがないので、名前と顔を知っているだけの生徒だった。特に、何かで話題になる生徒ではなかった。俗にいう、「まったく目立たない生徒」だった。

 その密航者が退学になったのか、停学か謹慎程度で済んだのかという記憶はない。卒業まで数か月というときだから、退学にはならなくても、もう学校には来なかったのかもしれない。卒業したのかどうかも知らない。「外国に行きたい」と思っていた私は、ヤツの話を聞きたかったが、それっきりになった。のちに私がライターになり、外国へのあこがれなどをテーマにするようになると、あの密航高校生のことが気になり、機会があればインタビューをしたいと思っていたが、なんの伝手もなかった。

 高校を卒業して30年ほどたち、同窓会に行った。ちょうどいい機会だから、あの「密航高校生」の情報を探した。ヤツはその後、どういう人生をたどったのか。この場にいれば、インタビューを申し込もうかと思っていた。

 ヤツと同じクラスだったのではないかという卒業生に、何か情報を持っているか聞いてみた。

 「ああ、〇〇君ね」と言うから、覚えているようだ。今、「〇〇君」としたのは匿名ということではなく、ヤツの名前をその時も今も、憶えていないからだ。

 「彼ね、アメリカの駐在員になったんだけど、そのアメリカで交通事故で亡くなったのよ」

 あの密航は、たまたまやったのか、それともアメリカに行きたいという感情が羽田に向かわせたのかが気になっていた。その解答はわからないが、のちに、現実に、合法的にアメリカに渡ったのか。やはり、あの密航のことをよく知りたいと思いつつ、何もせずに、ただ長い時間が流れてしまった。

 

 1970年をよく知らない人に、その年の事件を少し加筆しておこう。

 よど号ハイジャック事件、ジャンボジェット機日本初就航、大阪万博、60年安保闘争、日本人エベレスト初登頂、ジミ・ヘンドリックス死亡、ジャニス・ジョプリン死亡、三島由紀夫自決・・・・。

 

 

1578話 カラスの十代 その11

 

 あれは、1970年の、たぶん晩秋だったと思う。高校3年生のときだ。大きな事件が重なった。

 大阪の万博には出かけたし、このコラムでは万博にまつわる話を何度も書いているが、万博と高校はまったく関係はない。修学旅行は3年生の1970年ではなく、2年生の69年だったが、ついでだからちょっと書いておこう(実をいうと、修学旅行は1970年だと思い文章を書いているうちに、「あれっ、2年生の69年だぞ」と気がついたが、削除するのはもったいないので、この3行を加筆した)。

 中学と同じように、高校でも関西に行ったが、幸か不幸か事件など起こらず、大した記憶もない。こうして文章を書いていると、少しずつ記憶が蘇ってきた。「新幹線で行く修学旅行なんか、旅じゃない、つまらん。参加しない」と、いかにも前川が言いだしそうなことを教師に言ったのは、まさにこの私で、みんなと同じように修学旅行を楽しみたいという気持ちはなかった。夏休みに、すでに東北地方ひとり旅を楽しんでいたから、「ぞろぞろ歩く修学旅行なんざ、ごめんだね」と、自分なりの「旅の思想」があった。

 修学旅行は教育です、今は新幹線利用がもっとも安く合理的ですと、担任は気弱にさとしはじめ、それが哀れで、やはり気弱な生徒である私は渋々納得したフリをしたのだが、あれから50年たった今でも、やはり自分の主張を通し、修学旅行不参加を貫いたほうがよかったのかもしれないと思う。が、しかし、そういう態度をとると担任を苦しめることになるという心苦しさもあった。いま、修学旅行と新幹線の関係を調べると、ウィキペディアに「1970年(昭和45年)3月16日 東海道新幹線修学旅行列車を初設定」とある。ということは、1969年の時点では、新幹線はまだ修学旅行専用編成はなかったということになるのだが、このあたりのややこしいことは、深追いしない。

 高校の修学旅行は、教師から詳しい話を聞くと「ぞろぞろ歩く団体旅行」ではなかった。全行程団体行動というのは、中学の修学旅行が最後で、高校の修学旅行は昼中は生徒の自由行動だったから、変則的団体旅行だ。生徒は、一応の行動計画書を担任に提出するのだが、宿を出てしまったらこっちのものだ。全生徒の行動の把握などできないのだから、実質上、どこに行っても何をやっても自由という旅行だった。夕食までに宿に戻るという生徒と学校との約束だった。あとから考えると、生徒全員が日中自由行動というのは、教師たちにとって大英断だったと思う。何かをやらかすかもしれないと、きっと心配だったに違いないのだが、「ウチの生徒は、そうバカなことはしない」と判断していたのだろう。よく言えば信頼感であり、悪く言えば「ここの生徒は、バカをやるような反抗心や冒険心や無軌道な考えはない小心者だ」と思っていたのだろう。なにはともあれ、生徒の自主性に任せるという教育方針だったから、あの高校にしては悪くない決断だったと思う。天下のクラマエ師が学んだ鹿児島の超進学校は、修学旅行は受験勉強の邪魔ということで廃止されたというから、そこよりはだいぶマシな高校だったなとは思う。それはともかく、いわゆる団体旅行は今のところ高校の修学旅行が生涯最後である。

 1970年の大事件といえば、世間的には大阪万博のほかに、三島由紀夫自決事件があった。11月25日だった。下校直前に誰かがニュースを知り、すぐさま校内に知れ渡った。私にとっては、ニュースのひとつとしての大事件というだけで、思想的な衝撃はなかったのだが、一部の右翼的な生徒はショックを受けたらしい。

 あの事件があってからしばらくのちに、授業以外でもちょっと話をしていた日本史の教師から、高校として衝撃的な事件だったと聞いた。三島が隊長をつとめる楯の会に卒業生がいたというのだ。今、ネットで調べてみれば、私が入学する前年の卒業だから、同じ時代に高校生活を送ったわけではない。警察には、ここは何か特別な思想教育をする高校なのか、あるいはそういう思想の教師がいたのかという疑惑があり、日本史など社会科の教師を中心に警察の聴取を受けたらしい。その人物が高校を卒業してわずか3年後の事件なので、高校時代の教育や行動にのちの事件のヒントがあるかもしれないと警察は考えたようだ。私の感想では、高校や教師に、思想的影響は何もないと思う。

 もうひとつの事件は、やはり晩秋に、静かに始まった。その話は、次回にすることにしよう。

 

 

1577話 カラスの十代 その10

 

 あのころ、はっきりと意識していたわけではないが、将来の理想的な生活というものがあやふやながら見えていた。毎日本を読み、東京を散歩して、古本屋と映画館を巡り、気にいった喫茶店でひと休みする。そして、ときどき旅に出られれば、それが理想的な生活であった。相変わらず、どうやって金を稼ぐかということは考えていなかった。サラリーマンでなければいい。効率よく稼げるなら、どんな仕事でもよかった。仕事をしている組織の知名度などよりも、仕事で得られるカネでどう遊ぶかが重要だから、有名企業に就職しようなどとはいっさい考えなかった。そのころ描いた理想的な生活は、のちにさしたる苦労もなく簡単に現実のものとなり、以後、今日まで本と映画と旅の生活をしてきた。50歳を過ぎてから、CDバカ買い生活が加わり、東京散歩はなくなった。バブル以降の東京があまりおもしろくなくなったからであり、早く自宅に戻って夕食の準備をしたいから、用が終わればさっさと帰りたくなる。

 高校に入って、毎日のように図書室に通い、本を借りた。小説以外のあらゆるジャンルの本を読んだ。理系の本も少しは読んだ。図書室でよく会う友人は、日本と外国の名作文学全集を片っ端から読んでいた。そういう高校生は当時でももはや時代遅れで、比較的本を読むまわりの高校生は、北杜夫やエラリー・クインや松本清張三島由紀夫五木寛之などを読んでいるようだったが、よくは知らない。受験に用のない本は読まない生徒と、読んだ本のことは誰にも話したく生徒の両方がいて、あのころの他人の読書傾向はわからない。まあ、大勢は、「世界と日本の名作文学」だろうと思う。一部は、吉本隆明埴谷雄高倉橋由美子やもしかすると「共産党宣言」や「資本論」に手を出しているヤツもいたかもしれない。

 外国体験モノは、おもに神保町の古本屋で買った。小学生高学年から「図書購入台帳」をつけているから、いつどういう本を買ったか、すぐにわかる。高校入学から夏休みまでに買って読んだ本の一部は次のようなものだ。このころも今も、「教養を高めるための読書」とか「読んだとか、持っていると他人に自慢したい読書」などとはいっさい無縁だった。本でも映画でも音楽でも、背伸びする気はまったくなかった。

『アデウスにっぽん―若さとバカさの挑戦』(大槻 洋志郎, 本間 久靖、本田書房、1966)

『世界でいちばん寒い国』(岡田安彦、講談社、1966)

『サンドイッチ・ハイスクール』(植山周一郎、学習研究社、1966)

カラハリ砂漠』(木村重信講談社、1966)

『モゴール族探検記』(梅棹忠夫岩波新書、1956)

『海外旅行ABC』(三上操、現代教養文庫、1961)

『海外旅行入門』(ビル・ハーシー、集英社、1967)

『正続 南ベトナム戦争従軍記』(岡村昭彦、岩波新書、1965・66)

『ヨーロッパの味』(辻静雄、カラーブックス、1965)

ソ連・なんでも聞いてみよう』(ノーボスチ通信社、新興出版社、1965)

『世界の旅』(阿川弘之中央公論社、1961)

『裸足の王国』(福本昭子・松本真理子、光文社、1960)

『外国拝見』(門田勲、朝日新聞社、1962)

『ふうらい坊留学記』(ミッキー安川、光文社、1960)

『海外特派員』(青木正久、角川新書、1959)

 このまま書き出すときりがないが、高校1年生の夏以降読んだ本は、本多勝一今西錦司加藤九祚などの著作が続く。高校2年生の時に、書店で取り寄せて買った『食生活を探検する』(石毛直道文藝春秋、1969)は、その後の人生を決定することになる。意識していたわけでは当然ないが、石毛さんの本をはじめ、のちに国立民族学博物館に関係する人たちの著作を熱心に読んでいたのだと、のちに気づく。こういう本を次から次へと読みながら、「外国を自分の目で見たいなあ」と思う高校生だった。 

上に書いたリストは中学時代に買った本を間違えて書いたものだ。私の高校入学は1968年4月だから、時代が違った。あえて、誤記のままにして、正確な情報は、1616話以降に書くことにする。