1745話 ドイツとロシアの間の国々 その1

 あれは多分、今年の2月20日ごろだったと思う。ラジオを聞いていたら、ジャーナリストの青木理が、こんなことを言っていた。

 アメリカは、ロシア軍がウクライナに侵攻するなどと言っているが、そんなウソにだまされてはいけません。ロシアがウクライナに攻め込むなんてありえません。

 ロシア政治などまったく知らないし、アメリカ情報を無批判に信じることのない私でも、「違うな、ロシアはやるぞ」と思った。

 2月24日、ロシア軍がウクライナとの国境を越えて侵攻を始めた。

 それから数日後だったと思う。あの青木理がまたラジオに出演し、世界情勢を語るという。「番組に意見や質問があれば、メールでお寄せ下さい」というアナウンスが流れたので、「青木さん、ご説明を」と書いて送った。詳しく書かなくても、何の説明かはわかるはずだ。

 放送で、青木氏はこう説明(弁解)した。多くの研究者が、ロシア軍の侵攻などありえないと解説しているので・・・。つまり、ロシアの素人だから専門家の意見を採用したのですということなのだろう。その時の私は、専門家たちが「侵攻はない」と解説していたことを、不勉強にも知らなかった。侵攻後、その専門家たちが「想像もできないことです」、「不覚にも、予想できませんでした」と悔しそうに語っているのを聞いた。専門家が「侵攻ナシ」という理由にあげたのは、おもに「ロシアに利益なし」ということだった。

 そういうことも何も知らぬ私が、「ロシアはやるぞ」と思ったのは、単純な反共思想ではなく、ここ何年かの間に、ドイツとロシアの間の国々、チェコポーランド。そして、エストニアラトビアリトアニアバルト三国を旅した経験から、学問的根拠もなく「ロシアはやるぞ」と思ったのである。

 チェコの首都プラハの中心地にある旧市街広場を散歩していたら、手書きの立て看板が見えた。「ロシアのクリミア占領に抗議する」というものだった。それが「今のロシアの行為」だが、このあたりのことを少しは勉強すれば、ソビエト時代やその前のこともわかってくる。

 エストニアの最東端、ロシアと国境を接する地にナルバNarvaという都市がある。国内では、首都タリン、東の都市タルトゥに次ぐ第3位の都市だ。第2次世界大戦中、ナルバはナチス・ドイツ軍とソビエト軍の激戦地となり、市街はほとんど破壊されつくした。戦争前からエストニアは独立国だったが、ソビエトはナルバを占領し、エストニア住民の帰還を許さず、その代わりにロシア人を移民として送り込んだ。その結果、有数の工業都市ナルバの人口の95パーセントはロシア人という構成になった。

 1991年にソビエト崩壊によりエストニアは晴れて独立した。エストニアの中で「ロシア人」であり続けたナルバ住民は、ロシアに帰還することはせず、かといってエストニア語を学びエストニア人に帰化することもせず、かつての支配層はそのまま残っている。エストニア政府は、過去の恨みがあるのだろうが、帰化するにはエストニア語の試験を課した。いままでエストニア文化を見下してきたロシア人には、やさしい試験ではない。彼らがロシアに助けを求めれば、エストニア侵攻があるかと言えば、エストニアNATO加盟国だから、簡単には侵攻できないということに過ぎない。だから、正面からの侵攻はしなくても、裏工作はあるだろうと思っている。

 

 

1744話 初めての沖縄

 大雪の京都から大阪西成に出て数日滞在し、大阪南港から沖縄行きの船に乗ったのは1975年2月だった。「前回沖縄に行ったときはパスポートを持っていてね・・」という話を船客から聞いた。その時の旅が沖縄の本土復帰3年後だという知識はあったが、到着した沖縄が、3年前まで「アメリカ世」だったという実感はなかった。

 旅の予定など特になかったが、沖縄から船で石垣島経由で台湾に行き、そのあとは東南アジアに渡るというルートはおもしろそうだと思った。那覇で調べてみれば、たしかに台湾行の船はあり、その航路を利用したことがあるという旅行者にも会ったのだが、台湾から先の船便がないのが問題だとわかった。台湾からノーマル運賃を支払って香港に飛ぶか、船でまた沖縄に戻ってくるかという二つの選択肢しかなかった。台湾・香港ルートは交通費が高くつきそうなのでやめた。前年の7月に、横浜から船で香港に行ったから、今度は那覇・石垣・台湾経由で香港に行こうかと考えたのだ。今の若者に、なぜ「ネットで調べておかなかったのか!」とか「ガイドブックくらい読んでおくものでしょう」と言われそうだが、そのどちらもない時代の話だ。

 大阪で突然思いついた那覇・石垣・台北ルートの計画なのだが、それが不可能だとわかると、私の旅は方向を失った。指針のない、どーにもしょーがない旅行者になった。優柔不断だった。今旅をしているというのに、先の旅のことを考えて節約を考えていた。

 長い旅になるかもしれないと考えて、郵便貯金の通帳と印鑑を持っていた。そこに、ある程度のカネはあった。世間のサラリーマンはすでに銀行のキャッシュカードの時代に入っていたが、風来坊の私は日本国内の旅行ならまだ郵便貯金と印鑑を肌身離さない旅行者だった。クレジットカードなどまだまだ先の話だ。

 カネは少し持っていたが、できることならこのカネは外国旅行で使いたい。すでに外国旅行を体験しているので、「あの感動を再び」という気分だった。この沖縄の旅を終えたら、態勢を立て直し、旅行資金稼ぎに励み、日本を出ると決めていた。若者が、ひと月稼げば海外旅行ができるという時代ではまだなかったから、本気で稼がないといけなかった。

 沖縄を旅したいが、できるだけカネを使いたくない。そんな理由で、那覇の与儀公園で野宿をしていた。その方法は知り合った旅行者に教えてもらった。商店が閉店すると、商店街の隅につぶした段ボールが積んであり、それを何枚かいただいて、与儀公園に向かう。何かの施設の軒下に段ボールを敷いてベッドにして、寝転んだ。

 翌朝、目を覚ますと、その施設の職員らしき男が近づいてきた。怒られる。長々と説教されるのは嫌だなと思った。職員は静かな口調で、「ここで寝てもいいけど、ゴミは片付けてね。火にも気を付けて」と言って去っていった。いまでも、あれが沖縄のやさしさだったという気がする。

 「こんなことをしてちゃいけない」と反省した。節約しか考えていない日々はばからしい。早々に沖縄を退却し、与論島の掘っ立て小屋のような宿に泊まり、与論高校の工事作業員になり、しばらく稼いで、また沖縄に戻り、沖縄本島の南をちょっと旅した。沖縄のあとは、九州をちょっと旅した。

 その年の7月に、横浜からソビエト船に乗り、シベリア鉄道経由ヨーロッパへの旅に出た。

 前回のコラムで沖縄のことを書いていたら、初めて沖縄に行った時のことを思い出して、こんな話を書いてみたくなった。いつのことだったか覚えていないが、沖縄でサトウキビの収穫作業をすれば、宿と飯がついてきて、おまけにカネも稼げるという話を聞き、どこかの島の役場に電話したら、「もう収穫作業は終わりまして・・・」という返事で、沖縄での生活体験はできなかった。サトウキビ刈りといえば、キューバでサトウキビ刈りボランティアというのが昔あったことを思い出した。参加者には、後の朝日新聞記者伊藤千尋や音楽評論家中村とうようなどがいた。岡林信康キューバへ出発直前に中止した。ちなみに、1990年のことだが、ヤマザキマリも、キューバへサトウキビ刈りボランティアに出かけている。

 そんなことも思い出した。

 

 

1743話 沖縄復帰50年雑話

 パスポート?

 沖縄復帰50年記念番組が数多く放送されている。そのなかで、「復帰前は、沖縄と日本本土間の渡航にはパスポートが必要でした」という話が何度も紹介されているが、旅行史研究者としては、「それは、ちょっと違うなあ」と言いたくなる。

 日本人はとくに理由がなくても、1964年以降ならパスポートが自由に持つことができるようになった。もし沖縄に行くのにパスポートが必要なら、日本本土から沖縄に行く際は、そのパスポートを使えばいいはずだが、そうはならない。

 沖縄がアメリカ統治下にあるからと言って、沖縄住民はアメリカ人ではないから、アメリカのパスポートは取れない。沖縄は日本ではないから、当然、日本のパスポートも持てない。だから、「パスポートを持って渡航」という説明は間違いだ。

 沖縄人が日本本土に渡るには、アメリカ軍が沖縄に設けた統治機構である琉球列島米国民政府(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)が発行する「日本渡航証明書」が必要だった。一方、日本本土から沖縄に渡るには、日本の総理府が発行する「身分証明書」が必要だった。日本人のパスポートは外務省が発行するものだから、総理府が発行する「身分証明書」はパスポートではない。

 そのいきさつは、経験者の次の話でよくわかり、証明書の写真もある。

 https://mainichi.jp/articles/20220504/k00/00m/040/153000c

 

 ドル両替

 日本人の海外旅行史の研究をしていて、しかも沖縄関連のことを少しは調べていて、沖縄返還に際して米ドルから日本円の時代に変わるということは知っていたのだが、それをニクソン・ショックとの関連で考える頭がなかった。不勉強もはなはだしい。

 1971年のニクソン・ショックはふたつあった、ひとつは、突然、ニクソン大統領が中国を訪問したことで、1979年の中国との国交樹立につながる行為だ。もうひとつのニクソン・ショックはドル・ショックとも呼ばれている。アメリカ政府は貿易赤字を克服するために、ドルの価値を下げて、輸出を伸ばそうとしたと簡単に説明しておこう。ドルの価値が下がれば、アメリカ製品が安くなり、貿易収支が良くなると考えたのだ。ドル安に誘導すると宣言したドル・ショックは、1971年8月15日のことだ。

 日本にとって、ドルが安くなるということは、日本円が強くなるということだ。1971年当時、米ドルは1ドル=360円に固定されていたが、このドル・ショックにより固定できなくなった。71年後半には310円台になり、72年には約300円になった。日本人にとっては、「海外旅行が安くできる」とか「外国製品が安く買える」ということなのだが、米ドルで暮らしている沖縄住民にとって、72年の復帰後には手持ちの財産が大幅に減るということだ。

 復帰の際して、日本から大量の日本円を沖縄に送ったという話は知っていたが、不勉強にも、「1ドル=360円で両替作戦」を極秘で行ったという話は、NHK番組の再放送で初めて知った。手持ちのドル札に印をつけて、印のあるドル札だけを360円で両替するというものだ。

 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/952516

 資料は『ドキュメント 沖縄経済処分――密約とドル回収』ほか何冊かある。

 通貨が急に変わるという事態はビルマやインドでは大混乱を起こしたが、日本では苦労は多かったが混乱は少なかったらしい。

 

1742話 大阪の天ぷら定食

 神保町の天丼の話を書いていたら、大阪の天ぷらを思い出した。

 初めて天神橋筋を歩いたのは、天六天神橋筋六丁目)にある大阪市立住まいのミュージアムに行った時だ。館内に江戸時代の長屋が作ってるのだが、ここに来る最大の楽しみは、桂米朝師匠のやさしい大阪弁の解説が聞けることだ。

 特に用はなくても、梅田方面から天神橋筋という散歩もしている。その日も夕方の天六にいた。いつものように歩いて西成まで下る2時間か3時間ほどの帰宅散歩に入る前に、ここで何か食べていこうと思った。新今宮駅周辺は飲み屋はあっても食事処のバラエティーがなく、新世界に出ると、観光客相手の串揚げ屋はいくらでもあるが、私好みの安くてうまい店は少ない。

 天六から南下し、カラッポの胃袋と共に右や左の路地に入り、良さそうな店を探した。多分30分以上歩いて良さそうな天ぷら屋に行きついたのだが、場所も店名も覚えていない。インターネットで、その辺の天ぷら屋を探したのだが、「このあたりかな」と思うあたりに天ぷら屋はない。天五か天四(天神橋筋五丁目か四丁目)あたりで、天六から下って右側の脇道に入り・・・と、その日の行動を思い浮かべた。讃岐うどんの店があったのを思い出した。讃岐うどんは大好きだが、「なにも大阪で食わなくてもなあ」と思った。いくつかの情報を総合すると、天神橋筋から折れたのは、天五中崎通商店街だったと思うが、ネットではそのあたりにも天ぷら屋は見つからない。

 その店は、神保町の天ぷら屋にも似て、白木の戸だったと思う。その戸を開けると、カウンターが見えた。真新しい店だとわかった。50代と60代の夫婦がふた組。料理人は痩身の30代。端正という感じの料理人で、すしやてんぷらの職人のイメージ通りだ。

 「天ぷら定食をください」と注文すると、「お飲み物は?」と聞かれ、「お茶をください」といった。すぐさま、お茶が出てきて、しばらくすると和紙を敷いた竹ざる、味噌汁、ごはん、漬け物が出てきて、揚げたての天ぷらが1品出てきた。

 文句なく、うまい。私がいつも食べている天ぷら定食は、「はい、おまち!」と5品か6品の天ぷらがまとめて出てくるのだが、そこは1品ずつ出す事にしているらしい。

 ふた組の夫婦は、「そろそろエビもらおうかな」とか「白身の魚は何があるの?」などと料理人に話かけている。そういう高級店なのだと少々おじけづいたが、店頭に天ぷら定食の値段は表記してあり、だからこの店に入ることを決めたのだから、高額なわけはない。それがいくらだったか思いだせないが、1000円程度だったと思う。

 ほかにも、頭の中には疑問がいくつかあった。私を含めて5人の客も料理人も、誰も関西弁をしゃべっていないことだ。今、大阪にいるという実感がなかった。

 「天ぷら定食は、いったい何品出るんだろう」という疑問もあった。料理がまとめて出てくれば、飯との配分を計画できるのだが、何品出てくるのかがわからないと、どんなペースで飯を食えばいいのか予定が立たない。

 エビの天ぷらが出てきて、もう40年以上前に読んだ荻昌弘のエッセイを思い出した。ちゃんとした天ぷら屋は、エビのしっぽもカリっと揚がっていてうまいというもので、それ以後エビのしっぽは残さないことにした。この店のエビはしっぽまできちんと揚がっていて、カリカリした食感が楽しい。

 私は食味エッセイはめったに書かないのだが、こんな具合にあの店のことは書きたくなった。

 

 

1741話 神保町の天丼

 前回、神保町古本屋巡りの話で「昼は天丼だ」と書いたいきさつは、日ごろよく神保町を歩いている人や、あの近辺で仕事をしている人たちなら、私の連想がわかったかもしれない。

 神保町といえば、今ではカレー屋激戦区で、古本屋がラーメン屋に変身した例も多いのだが、昔は天ぷらの街だといってもよかった。「いもや」を店名にした天ぷら屋が何店もあり、同名のとんかつ屋もあった。

 私の古本屋散歩の順路はいつの間にか、水道橋駅を降りて、白山通りを南下して靖国通りに出て、その辺をうろつき、へとへとになって御茶ノ水駅に行くというルートだった。それが今は御茶ノ水駅を降りて、ディスク・ユニオンのジャズ館に寄ってから古本屋に向かうことになった。散歩ルートが変わった理由は、天丼だ。

 かつて、水道橋駅で降りていたころ、白山通りで「天丼 いもや」と書いた大きな暖簾がかかっている店を見つけ、カウンター席だけの店内はいつも混んでいて、昼飯時を外しても空席を待っている人がいた。順番を待って飯を食うのは好きではないが、ある日、「天丼、いいな」という気分で、待っている人は数人だったので、私も店内で待った。食べてみれば、うまかった。値段以上の価値があった。

 それが天丼の「いもや」神保町2丁目店との出会いで、いつのことか覚えてはいないのだが、1970年代だと思う。それ以降、80年代、90年代としばしば「天丼のいもや」に行った。神保町のほかの飲食店にももちろん行ってみたが、それらの店に通うことはなかった。神保町を「カレーの街」として売り出そうしているが、カレー屋にはあまり行っていない。私は、能書きのついた料理は好きではない。

 それがいつだったかはっきりとは思い出せないのだが、2000年代に入ってからかもしれない。いつも行く「天丼のいもや」の料理人がいままで助手だった男に変わった。それまで何年も助手を務めて天ぷらの技を盗み、仕事に励んだのかと思ったが、これがダメだった。衣が厚すぎて、しかもふわふわだ。「フリッターを食ってんじゃない!」とケチをつけたくなる味だった。

 そう感じたのは私ひとりではなかったようで、かつては席が空いていることなどなかった店なのに、店の前を通るとガラス越しに空席が見えた。しばらくして、心を入れ替えたかと思い、再訪したが、やはりふかふかの衣で、私の好みには合わなかった。食通のエッセイに、「あの店は料理人が変わって、味が落ちた」などというのが時々あるが、まさにそれだった。私は「天丼いもや」は見限り、近くの「とんかつのいもや」に立ち寄ることになった。

 2018年に、その2店のいもやが閉店した。天丼の店がダメなのはわかるが、「とんかつのいもや」の方は、客がいつも順番を待っている店で、ご近所の昼飯処として愛されていた。この文章を書くためにちょっと調べたら、神保町の何店舗もある「いもや」の直営店が、たまたま私が通っていた2店らしいが、閉店の理由は知らない。

 白山通りの古本屋はなじみの店が少なく、次第に古本屋からの転業が進み、しかも天丼ととんかつの店に寄ることも無くなったので、水道橋駅で下車する意味がなくなった。その後、御茶ノ水駅そばにディスク・ユニオンのジャズ専門店ができたので、さらに水道橋は遠くなった。

 古くからやっていた古本屋が別の店になる主な理由は、後継者がいないかららしく、古本屋を廃業してビルの大家になったようだ。大通りに面した古本屋は減ったが、路地のなかで新規営業を始めた古本屋は多いらしいが、「なるべく本を買わないようにしている」私は、路地裏古本屋探検に出かけてはいない。

 のれん分けした「いもや」名義の店舗はまだ神保町にもあるようなので、今度行ってみようか。

 

 

1740話 神田神保町散歩 下

  神保町の東京堂書店は、立花隆など、小説家やライターなどのエッセイによく出てくる書店で、私の好みにも合う本が多い。出版関係書とか出版業界内幕本が揃っているというわけではない。おそらく、タレント本とか自己啓発本とか健康とか栄養といった売れ筋ベストセラーが全面に出ていなくて、いわゆるクロウト好みの品揃えが執筆者や編集者たちにはうれしいのだろう。

 上の階にあがると、台湾本コーナーがあった。私が読みたいと思う本はすでにリストアップしてあるから、意外な掘り出し物はなかったが、韓国やタイの関連書と比べて、私の好みで言えば「豊穣」と言いたくなるほどおもしろそうな本が多い。韓国の小説は多く出版されているようだが、私は基本的に小説を読まないので、韓国や台湾の小説の評価はできない。

 1階の文庫の棚には、文庫の旅行書コーナーがあり、何冊か買った。以前は食のコーナーだった。1階でしばらく遊んでから、会計カウンターに本を持って行った。もらったQUOカードは図書カードのように使えるようで、三省堂ではなくここで使う予定だったが、「当店では、このカードは使えないので・・・」とオダギリ・ジョーのようなことを言い(わかりますか?)、しかたなく三省堂に戻って買いなおすことにした。

 途中、中国関連書店東方書店に寄って、台湾本を物色したが数的にも少ない。昔は、台湾本も結構あったのに。やはり、誠品生活日本橋に行かないとダメか。

 東京堂で買い損ねた本を三省堂で買おうとして、困った。出版社や書名を覚えていないのだ。東京堂書店で目についた本を次々にカゴに入れただけなので、記憶が薄い。文庫の平台をチェックしても、新刊なのに見つからない。東京堂ならすぐに欲しい本が見つかったな。三省堂では本探しにえらく苦労したのに、帰宅してから買い忘れた本があったことに気がついた。これもいつものことだ。三省堂は旅行書のチェックには使うが、いわゆるガイドブックが多く、食文化本も含めて買いたくなるような本はあまりない。

 食い物の話を最後に。家を出るときから、なぜか「昼は、天丼だな」という胃袋になっていた。安くてうまいのが「天丼てんや」で、神保町に行く前に途中の乗換駅で降りて、食べようかと思ったが昼時になってしまうので、避けた。その結果、昼には少々遅い時刻に神保町に着き、めし処を探した。たまたま「さぼーる」の前を通ったら長蛇の列ができていて、「ここも閉店直前か?」といぶかしく思ったが、テレビで度々紹介されるので、行列しないと入れない喫茶店になってしまったようだ。

 のどが渇いたので、サンドイッチにコーヒーの昼飯にしようかとも思たのだが、胃袋も脳も「天丼」になったままで、ちょうどいい機会だから、古くからやっている天ぷら屋に、15分ほど店頭で待って入ってみた。長くやっていれば、それなりに高い評価を受けてきたのだろうと思ったのだが、残念。エビがインゲンほどに細い。しかも、卑猥な描写をしたくなるほどに白く細くふにゃふにゃなのだ。箸でつまんでも起立しない。関西の天ぷらのように色が薄く、うまければそれでいいのだが、弱火で揚げたような天ぷらで、タレが吸い物のように薄い。飯が柔らかすぎる。「ああ、てんやに行けばよかった」と思いつつ天丼を食う寂しさよ。この文章を書いている今も、「ああ、てんやにすればよかった!!!」と悔やんでいる。まずい物を食うと、あとあとまで落ち込む。

 

 

1739話 神保町散歩 中

 かつて、神保町に出かけるのは「買い出し」だった。職業的書き手、つまりライターになる前から、デイバッグを背に神保町や高田の馬場の古書店街に行けば、十数冊は買っていた。古本屋歩きをする者の共通認識なのだが、「見つけた本は一期一会、再会できる可能性がないと考えて、すぐさま買え」というものだから、「気になる本は買う」のが原則で、できる限り買っていた。

 ライターになり、本を書くための資料を集めるという目的があると、購入枠が広がり、「とりあえず買っておくか」という本が増えていった。いまは書きおろしの仕事はないが、このアジア雑語林のブログのために、例えばチェコやバルト3国やイベリア半島の物語を書くために資料を買い集めた。原稿料が入る執筆ではないが、「知りたい」という欲望を満たすための遊びである。

 それが、今ではあまり買わなくなった。理由はいくつもある。

 第1の理由は、書きたいテーマがないということだ。コロナなどなく、従来通り滞在型の旅をしていれば、例えば「ハンガリー紀行」とか「スリランカ紀行」といったブログの資料を買い集めることになるのだろうが、旅をしないと、大量に資料を買う必要がなくなる。実は、昨年秋から取り組んでいるテーマがあり、次々に本を買い、読み、すでに段ボール箱2箱分の資料があるのだが、中世ヨーロッパから始まる話なのでなかなか書き出せずにいる。

 第2の理由は、アマゾンなどネット書店の影響だ。私にとって重要なことは新刊かどうかではなく、発行されたのがいつであれ、知りたいことを教えてくれる本なのだから、アマゾンが便利だ。探している本をピンポイントで探すこともできるが、例えば「食文化史」とか「台湾の本を出版の古い順」という検索をすると、欲しい(と思える)が見つかる。「おもしろそう」というところが問題で、ネット書店では内容がよくわからない。出版社のホームページで目次を確認できる場合もあるが、よくわからないで買うことに変わりはない。だから、本は届いたが、「なんだ、これか」で終わることになる。

 第3の理由は、そうやって買った本が山になり、「もう、買うのはセーブしたほうがいいな」と思うからだ。「どうしても買っておきたい」、「すぐに読みたい」という本なら、本の山を気にすることもなく買うのだが、「まあ、今読まなくてもいいか」という程度の本だと買わない。世の中に、「今すぐ読まないといけない本」などほとんどないのだ。

 第4の理由は、目だ。もう20年以上前だと思うが作家の小林信彦がラジオ番組に出演した時のこと、「最近のお勧め本は?」とアナウンサに聞かれると、「目が悪くなってね、なかなか本が読めなくなって・・・」と答えた。「老眼ですか?」という問いに、「そんなもの、ずっと前からですよ」と怒ったように答えた。

 数年前から小林の言いたかったことがわかるようになった。じっと活字に注目しているとぼやけてくる。長い文章を読み続ける根気がなくなった。飛び切りおもしろい本なら昔のように一気に読むのだが、そういう本とはめったに出会わない。だから、本の購入量は減り、CDを山ほど買うようになったのだ。アマゾンの支払いでも、数年前から本よりもCD代金の方が多くなった。

 だから、昨今の神保町散歩は、「本を買いたい」という従来からの欲望と、「なるべく買わないようにしよう。途中で飽きるに決まっているから・・・」というという感情、本を買うアクセルと買わないというブレーキの両方を同時に踏んでいるようなものなので(ドリフト買い物とでも呼ぶか?)、書店で本を手にしても「買わない理由」を探しているところがある。 

 インテリはこういう感情を、ambivalentというらしい。

 こうして、二律背反男は、買いたいがなるべき買わないようにしようと思いながら、三省堂書店を出て東京堂書店に向かったのである。

この文章は、5月11日に書いている。晴天は今後しばらくはないようなので、サイクリングを兼ねて、BOOKOFFに。ジャズの棚にトルコ語のCDがあったので買ってみる。ジャケット写真からクラリネット奏者らしいとわかるが、Hüsnü Şenlendiriciという人物について何も知らない。帰宅して聞いていみると悪くない。トルコ歌謡は中島みゆきのメロディーを感じることがある。Youtubeにも演奏している画像は多数あり、数時間トルコ音楽と共に過ごした。本よりもCDをよく買うという話だ。