1739話 神保町散歩 中

 かつて、神保町に出かけるのは「買い出し」だった。職業的書き手、つまりライターになる前から、デイバッグを背に神保町や高田の馬場の古書店街に行けば、十数冊は買っていた。古本屋歩きをする者の共通認識なのだが、「見つけた本は一期一会、再会できる可能性がないと考えて、すぐさま買え」というものだから、「気になる本は買う」のが原則で、できる限り買っていた。

 ライターになり、本を書くための資料を集めるという目的があると、購入枠が広がり、「とりあえず買っておくか」という本が増えていった。いまは書きおろしの仕事はないが、このアジア雑語林のブログのために、例えばチェコやバルト3国やイベリア半島の物語を書くために資料を買い集めた。原稿料が入る執筆ではないが、「知りたい」という欲望を満たすための遊びである。

 それが、今ではあまり買わなくなった。理由はいくつもある。

 第1の理由は、書きたいテーマがないということだ。コロナなどなく、従来通り滞在型の旅をしていれば、例えば「ハンガリー紀行」とか「スリランカ紀行」といったブログの資料を買い集めることになるのだろうが、旅をしないと、大量に資料を買う必要がなくなる。実は、昨年秋から取り組んでいるテーマがあり、次々に本を買い、読み、すでに段ボール箱2箱分の資料があるのだが、中世ヨーロッパから始まる話なのでなかなか書き出せずにいる。

 第2の理由は、アマゾンなどネット書店の影響だ。私にとって重要なことは新刊かどうかではなく、発行されたのがいつであれ、知りたいことを教えてくれる本なのだから、アマゾンが便利だ。探している本をピンポイントで探すこともできるが、例えば「食文化史」とか「台湾の本を出版の古い順」という検索をすると、欲しい(と思える)が見つかる。「おもしろそう」というところが問題で、ネット書店では内容がよくわからない。出版社のホームページで目次を確認できる場合もあるが、よくわからないで買うことに変わりはない。だから、本は届いたが、「なんだ、これか」で終わることになる。

 第3の理由は、そうやって買った本が山になり、「もう、買うのはセーブしたほうがいいな」と思うからだ。「どうしても買っておきたい」、「すぐに読みたい」という本なら、本の山を気にすることもなく買うのだが、「まあ、今読まなくてもいいか」という程度の本だと買わない。世の中に、「今すぐ読まないといけない本」などほとんどないのだ。

 第4の理由は、目だ。もう20年以上前だと思うが作家の小林信彦がラジオ番組に出演した時のこと、「最近のお勧め本は?」とアナウンサに聞かれると、「目が悪くなってね、なかなか本が読めなくなって・・・」と答えた。「老眼ですか?」という問いに、「そんなもの、ずっと前からですよ」と怒ったように答えた。

 数年前から小林の言いたかったことがわかるようになった。じっと活字に注目しているとぼやけてくる。長い文章を読み続ける根気がなくなった。飛び切りおもしろい本なら昔のように一気に読むのだが、そういう本とはめったに出会わない。だから、本の購入量は減り、CDを山ほど買うようになったのだ。アマゾンの支払いでも、数年前から本よりもCD代金の方が多くなった。

 だから、昨今の神保町散歩は、「本を買いたい」という従来からの欲望と、「なるべく買わないようにしよう。途中で飽きるに決まっているから・・・」というという感情、本を買うアクセルと買わないというブレーキの両方を同時に踏んでいるようなものなので(ドリフト買い物とでも呼ぶか?)、書店で本を手にしても「買わない理由」を探しているところがある。 

 インテリはこういう感情を、ambivalentというらしい。

 こうして、二律背反男は、買いたいがなるべき買わないようにしようと思いながら、三省堂書店を出て東京堂書店に向かったのである。

この文章は、5月11日に書いている。晴天は今後しばらくはないようなので、サイクリングを兼ねて、BOOKOFFに。ジャズの棚にトルコ語のCDがあったので買ってみる。ジャケット写真からクラリネット奏者らしいとわかるが、Hüsnü Şenlendiriciという人物について何も知らない。帰宅して聞いていみると悪くない。トルコ歌謡は中島みゆきのメロディーを感じることがある。Youtubeにも演奏している画像は多数あり、数時間トルコ音楽と共に過ごした。本よりもCDをよく買うという話だ。