1860話 夢はなんとも不可解である、当たり前だけど。 下

 

 会いたい人に夢でさえなかなか会えないのに、まったく意識していない人が夢に出てくるということがある。学校や職場などで、ただ顔を合わせるだけの人と、夢のなかでなんと恋仲だという夢だ。いままでその人を気にかけていたことなどなく、ましてや恋心を抱いたこともないのに、なぜか夢で仲良くなっている。

 小学校5年か6年の時だったと思う。同級生といっしょに帰宅している夢を見た。その人はもちろん名前は知っているが、それだけの関係で、多分話もしたことがないと思う。朝の挨拶さえしていないと思う。夢の中では、その人と仲良く下校しているのだ。朝、目が覚めて、「これは、なんだ!」と驚いた。その日から、教室でその人に出会うと、妙に恥ずかしかった。その人は私が見た夢など知らないのだから、気にすることなど何もないのに、なんだか気恥ずかしい。その夢は今でも覚えている。

 変な夢だ。大好きな人の夢を見るならわかるが、まったく意識していない人の夢を見るという理屈がわからない。そう思った。大人になって、私と同じ夢体験をしている人が少なからずいることを知って、珍しい体験ではないとわかった。

 さて、つい先日のことだ。夢に、中学時代の知り合いが登場した。夢の中でも恋仲ではない。道で行き違っただけのことで、何も事件は起きない。その人は、同じクラスになったことはないが、友人の友人ということで、廊下などで出会うとちょっと話をしたことはあった。背が高く、宝塚の男役のように短い髪を撫でつけていた。ちょっと珍しい姓で、発音がしにくいことで、印象に残っている。たったそれだけのことなのに、夢に登場したのが不可解なのだ。夢の中の彼女は中学生ではないが、20代くらいだろうか。画像がはっきりしない上に、言葉も交わさない登場シーンなので、夢の中でさえ印象が薄い。

 中学卒業後、彼女とは一度も会っていないのだが、実は電話がかかってきたことがある。20歳か21歳のことだから、1970年代初めころだ。

 「あの、さあ、突然電話して、悪いんだけど、今月中に家賃を払わないと追い出されるんで、ホントに悪いんだけど、お金を貸してほしんだ・・・」

 金額がいくらだったか覚えていないが、3万円か5万円か、そのくらいの金額だったと思う。10万を超えることはなかったと思う。昔は卒業生名簿が公開されていたから、ウチの電話番号は簡単にわかり、電話がかかってきたときに、たまたま私が在宅していたということだ。

 顔見知り程度の関係しかない人からの、突然の借金お申込みだ。私は外国に行こうとカネを貯めていたから、そのくらいのカネは持っていたが、「いいよ」などと簡単に言う気はなく、すぐさま断った。電話は、あっさり終わった。

 それから数か月たったころ、中学高校と一緒だった友人たちと喫茶店で雑談しているときに、「そういえば・・」とあの電話の話をした。友人たちも彼女の記憶はあったが、電話はかかってこなかったようだ。

 「それは、さあ」とひとりが言った。「子供をおろすんじゃないか。家族や親しい人にも言えず、カネが必要というのは・・・」

 「オレは、悪い男に引っかかっているんじゃないかと思う」と、別の友人が言った。「その男の子供をおろすということも考えられるが、男の借金を今まで肩代わりしてきたが、もう借金できるところがなくて、お前に電話してきたとか・・・」

 その元中学生と、50年以上のちに、夢の中で道路ですれ違うのだから、夢は不可解である、当然だけど。

 

 

1859話 夢はなんとも不可解である、当たり前だけど。 上

 

 夢に「あるある」があるらしい。夢について書いたりしゃべったりしたもののなかに、同じ話題が多いことに気がついた。

 元優等生たちが語る夢は、気がつくと試験会場にいて、試験を受けているという夢だという。試験勉強などまったくしていないから、どぎまぎしているという夢だそうだが、優等生ではない私は、そういう夢を見たことがない。

 役者たちがよく見るという夢は、気がつくと舞台にいて、公演の初日らしいのだが、セリフをまったく覚えていない。稽古をまったくしていない。「それなのに初日を迎えてしまった」という夢を、役者になって何年もたっているのによく見るという。私は役者でも歌手でもないし、会社でプレゼンをするという立場でもないので、このような夢も見たことがない。

 小中学生時代にしばしば見た夢は、小学校に着いたら手ぶらだったというものだ。ランドセルを持たずに登校してしまったという夢だ。中学校に着いたら、パジャマ姿だったという夢も、何度も見た。ちなみに、夢ではなく現実にやった人もいる。フリーアナウンサーがパジャマ姿でTBSに表れたという事件で、その放送を聞いていて「正夢か!」と思ったのを覚えている。

 奇妙な夢も覚えている。ナイフで鉛筆を削っていて、ふと指を切ったら、スパッと切れて、痛みはない、血も出ない。「あれ、おかしいぞ」と思って、さらに指を切るが、やはり痛みはない。消しゴムを切るよう指を切っていたら、指2本が消えてしまい、とんでもないことをしたと怖くなったという夢で、怖くて目が覚めたのか、そのまま寝ていたのかは覚えていない。

 そういえば、追いかけられて苦しむという夢は小学生時代に何度か見たような気がするが、それ以後はまったく見ていない。その怖い夢だって、何か悪いことをして逃げようとしたというのではなく、多分テレビドラマの怖いシーンを見たからかもしれない。このときの「怖い夢」体験があるから、現実に私が何かの犯罪を犯して逃げていたり、交通事故などで誰かを傷つけたとしたら、そのシーンが絶えず夢に出てきて、精神がおかしくなってしまいよそうな気がする。寝ても覚めてもPTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)になりそうだ。

 楽しい夢を見たいと思っている人は多いだろう。密かに愛しく思っている人や有名人などと、夢の世界で会い、楽しいひと時を過ごせたらどんなにいいかと思っている人は多いだろうが、多分、見たい夢を実際に見ることができるチャンスはそれほど多くないのかもしれない。NHKのバラエティー番組「夢であいましょう」(1961~66)は同時代に見ていて、番組テーマソング(永六輔作詞、中村八大作曲)も聞いているが、とくに何かを感じることはなかった。

 大瀧詠一作詞作曲の「夢で逢えたら」(1976)はのちに様々な歌手にカバーされているが、「ちょっといいな」という程度の感想だった。「恋しい人に会いたい」という歌だから、恋愛ソングのひとつにすぎないと感じていたからだろう。50を過ぎて、この2曲が心にしみるようになった。同世代の友人知人が死に、両親や親族も死に、もうこの世では会うことがかなわない人たちと、せめて夢で会えたらと願う歌に聞こえてくるからだ。

 

 

1858話 現場作業の夏と冬 その2

 

 真夏の仕事がつらいと思ったことがない。炎天下で仕事をしているから、当然汗をかく。職人たちが皆、ハチマキを締めている理由がよくわかった。汗が目に入ると、作業ができなくなる。高いところに上っているときに目を開けられなくなると大変だ。そういうことがわかってくると、私もタオルでハチマキをした。

 暑くなると、シャツが汗で湿り、脱ぐと風を感じて気持ちがいい。半そでや上半身裸で仕事をしているのは、素人の私くらいで、皆、長そでのシャツや作業服を着ている。その理由も、しばらくするとわかってくる。ひとつは、けがを防ぐためだ。ひっかき傷を防ぐ。金属片などが飛んできても、長そでなら、多少は防御になる。夏はもうひとつ、長そでを着ている理由がある。現場で仕事をしていて、突然腕に痛みを感じたことがあった。足場の金属パイプに腕が触れたのだ。パイプは炎天下で高熱になり、素肌に触れるとヤケドしそうなほど熱い。

 10時の休憩になると、「暑いぞ~!!」と叫びつつ水道の蛇口をひねり、まずは水をがぶがぶ飲み、顔を洗い、上半身に水をかけ、タオルでふく。これで心身ともに回復する。

 12時になると、同じように水場に行く。その後、日陰で弁当を食べて、ベニヤ板かベッドになりそうな板を探して、1時まで昼寝。横になった途端に、熟睡。誰も目覚ましなどを持っていないが、1時ちょっと前に目を覚まし、ほかの人もその音で目を覚まし、午後の仕事を始める。

 3時に休憩し、4時過ぎにまとめの作業に入る。5時前にトラックに道具類を積み、事務所に戻る。そういう毎日が、楽しかった。

 先ほど、我が家に来た電気屋さんとちょっと雑談をした。ちょうどこの原稿を書いている途中だったので、「電気屋としては、夏と冬は、どちらがつらいですか?」と聞いてみた。

 「まあ、どちらも、つらいですが・・・。夏は、屋根に上がる仕事はできません。昔は瓦屋根だから大丈夫だったんですが、今は金属屋根になったんで、黒いから暑くて、炎天下で熱くなっていてヤケドします」

 私の時代は、夏の方がよかった。冬は、つらかった。

 8時前に現場に着くのはいつものことだが、冬は石油缶を探して、まずは焚火だ。燃やしていい木材などいくらでもある。現在、我が家の近くでもしょっちゅう新築工事をやっているが、「現場の焚火」は環境問題と防火問題の両方が理由で、よほど田舎でなければ焚火は消えたと思う。ベニヤの外壁を貼ったら、電気のストーブを使うようになったはずだ。

 作業員だった時代に、もっとも寒かった日のことはよく覚えている。鉄筋コンクリート3階建ての小さなビルの生コン打ちの日だった。鉄筋屋が柱や梁を組み、型枠大工がベニヤで包む。そして生コンクリートを流し込む。その日なのだが、朝から氷雨が降っていた。大雨なら中止になるが,「少雨決行」である。型枠大工は、ふてくされたように、「アレと生コン打ちは、途中で止められないからよ~、始まったら最後まで行くんだよ!」と叫んだ。

 小雨の中、私は木づちで型枠をたたき、生コンが細部まで流れるようにした。寒くて、体が震えているのがわかる。うまく流れないと、鉄筋がむき出しになったり、砂利が固まっていたりするから、神経を集中させて、たたく。

 生コン打ちを失敗した状態を「ジャンカ」と言った。いま、試しに調べてみたら、語源はわからないものの、ウィキペディアに出てきた。

 昼前に作業が終わった。現場監督が、「ごくろうさん」ということで、出前で全員にうどんをとってくれた。現場に届いた出前のうどんだから、すでにアツアツではないが、暖かいだけでうれしかった。

 箸を手にしたが、割れない。うまくつかめないのだ。箸の端をくわえて、両手で反対の端を引っ張り、箸を割った。右手に箸をもったものの、生まれて初めて箸を持ったアメリカ人のように、げんこつで握っているのと大差ない。かじかんで、指が動かないのだ。うどんをつまむのをあきらめて、引っ掛けるようにして、口に流し込んだ。

 小雨が降っているから焚火はできず、寒くて昼寝の出来ず、全身ずぶぬれだが、着替えはない、着替えを持っていたとしても、午後の仕事があるから、着替える意味がない。そんな1日を、今も覚えている。悪い思い出ではない。

 

 

1857話 現場作業の夏と冬 その1

 

 工事現場で働くのは好きだった。それが大きなビルや高速道路などだったら、すぐに逃げ出したと思うが、小規模な工務店の小さな現場だったから、毎日楽しく過ごせた。

 そもそもは、高校の卒業式の日だった。年が明けた高校3年生というのは、進学などの準備で学校に来ない生徒が多く、ばらばらのまま1月2月を過ごし、卒業式に久々の再会となる。

 級友で、私と同じように「いつか外国に行きたい」と思っているヤツと会って、「今まで、何してたの?」と聞いたら、「渡航費用を稼いでいるよ」と言った。ゴルフ場でアルバイトをしていたら、客の会社社長と知り合い、それとなくアルバイトの事情を話すと、「ウチの方が稼げるぞ」と言われて転職し、工事現場で働いてると言った。

 私は「外国に行きたい」と思っているだけで、まだ具体的な準備をなにひとつしていない状態だったので、「オレも、そこで働けるかな?」と聞くと、「たぶん、大丈夫だと思うけど、明日の朝早く、事務所に来てみれば? うまくいけば、明日から働けるかも」。

 そして、翌朝早く、友人と駅で待ち合わせ、高校からそれほど離れていない事務所に行き、その社長に事情を話すと、「そうか、わかった。今日から働けるか?」といって、採用が決定された。採用と言ってももちろん正社員ではなく、日給で稼ぐアルバイトである。

 1971年ごろの土建業の標準かどうか知らないが、そのころは、毎月15日と月末が休日で、その前日が給料日だった。ひと月に休みが2日というのは少ないようだが、職人は稼ぎたがった。雨の日は仕事にならないから休みということもあり、そういうバランスで休日が決まっていた。その年の夏には、毎週日曜日が休みになった。土建業組合の申し合わせがあったのかもしれない。

 この工務店の仕事を紹介してくれた級友は、4日間いっしょに仕事をしただけで、やめてしまった。かねてから目をつけていた女の子がデートの申し込みを受け入れてくれて、「もう、毎日がデートだぜ。カネはあるし」というわけだった。

 女の子と仲良くなりたくて、デパートなどでアルバイトをしている級友の噂話が耳に入ったが、ネクタイを締め、売り場で接客することにうらやましさはなかった。男だけの工事現場で汗を流している方がすっと楽しい。

 「オレたちの仕事は、『ひとり仕事』はできないことが多いんだよ」と職人頭が言った。「高いところで作業しているとする。次の作業のために、道具や材料がいるからといって、いちいち脚立を下りて、また登るということとをやっていたら、手間と時間がかかってしょうがない。言われたとおりに、下から上に材料や道具を渡してくれるだけで、作業がはかどる」。だから、私のようなド素人でも、現場ではそれなりに価値はあるのだ。

 朝8時には作業を始めるという慣例になっているから、作業内容によっては7時45分とか7時半には現場に着いている。材料が必要な場合は、資材販売店に寄ってから現場に行くこともある。だから、資材や道具を扱う店は、7時にはもう営業をしている。我々も7時ごろには事務所に集合ということになっていた。現場に着くと、その日同じ現場で仕事をする他の業者、例えば、大工や鉄筋屋、電気屋などと仕事の簡単な打ち合わせをしてから仕事を始める。みんなプロで、顔なじみだから、何か事故事件でもない限り、挨拶が打ち合わせのようなものだ。

 朝7時過ぎに、事務所の隣りにある倉庫から、その日に必要な道具類を取り出してトラックに積んでいると、道路の脇を歩いている男女ふたりが見えた。高校の2年先輩で、友人が属していたそれぞれ別のクラブの上級生で、ほんの少し言葉を交わしたことがある。女性の方はなかなか魅力的な人で、「憧れのセンパイ」というほどではないが、好印象だった。それぞれ別のクラブの属していた人だが、交際しているという噂は知らなかった。これが昼間や夜なら特に何も感じないが、朝7時の「後朝(きぬぎぬ)の別れ」のようで、高校を卒業したばかりの紅顔の土木作業員には刺激が強かったから、トラックの運転席で顔を隠した。

 

 

1856話 将来は?

 

 テレビには当然さまざまな人が登場する。そういう人たちを眺めていて、「もし、今、中学生か高校生だったら、どういう人生を選びたいと思うだろうか」と、フト思った。ヒマつぶしの妄想である。

 妄想ではなく、現実の話からすると、誰も高校生の私に質問はしなかったが、「将来は、どうする?」と、もし質問されたら、 私の回答はきっとこんなものだろう。

 「外国を旅してみたい。映画を見ていたい。月に数回くらい神保町を歩き、リュックに本をつめて帰宅したい」

 大人が子供に聞く「将来は?」という質問は、「将来は、どういう職業に就きたいのか?」という意味だろうが、私は「したいこと」を答えただろうし、高校を卒業して3年後には、その「将来の希望」はすべてかなえていた。

 高校時代、将来の職業のことはまったく考えていなかった。職業のことよりも、したいことの方を考えていた。したいことができる資金が稼げれば、仕事なんかなんでもいいと考えていたから、建設作業員になったのだ。

 妄想の話に戻る。職業に話に限って、考えてみる。

 妄想の中の若い私は、現実の私と同じように、背広を着て働く職業は選ばない。会社員でも役人でも同じように、いやだ。背広ではなく作業着でも、いやだ。たとえその企業が世界的規模の大企業であっても、その工場で作っている物が世界最高レベルの製品だとしても、会社員はいやだ。要するに、組織の一員にはなりたくないのだ。だから、旅行会社も航空会社の社員も選ばない。マスコミへの就職も、たぶん考えない。

 職人に、ひかれる。毎日、コツコツとひとりで作業している姿にあこがれる。現実の私は、そういう作業に不適応だとわかっているから、「才能があるから妄想した」というわけではまったくない。

 流れ作業や共同作業は、嫌だ。塗師(ぬし)のように、分業制の仕事はいやだ。初めから最終工程まで、ひとりでやりたい。「工芸作家」とか「陶芸家」といった偉そうな地位をめざしたいとはまったく思わない。私にその能力があるかどうかということとはまったく別の話だ。私が作った物が、高値で売れて、桐の箱に入れられたまま、どこかの倉庫かコレクターの倉に入ったままになっているのは、おもしろくない。漬け物や煮物を入れて毎日使う生活雑器の方が、作っていて楽しいはずだ。

 物を作るなら、金属製品ではなく、竹や木を加工したものの方が好きだが、テレビやネット動画でついつい見てしまうのは、鍛冶屋だ。農具などの道具を作る過程をじっと眺めている。ハサミでもナイフでもいい。美術品ではなく実用品を作る職人がいいから、刀鍛冶には興味はない。カマやクワをたたいて作っている方が楽しそうだ。鋳物作りだと、ひとりではできないから、関心は薄い。木を扱うなら、家具職人も悪くないと思う。

 物を作るわけではないのにひかれるのは、ピアノの調律や楽器の修理だ。ひとりでやる作業だから、ひかれるのかもしれない。楽器の修理は、ある程度の技術を体得するまでは勤め人の修業期間を過ごすのだろうが、それは気にならない。

 今現在の妄想では、「ライターをしている自分」は思い浮かばない。その理由は簡単だ。ライターになりたくてなったのではなく、なしくずし的にライターになったからだ。10代の私は、「いずれ、外国に行きたい」と、それだけしか考えていなかった。働くということは、外国に行く資金稼ぎが第1で、生活はギリギリでよかった。建設作業や清掃作業をして、旅行資金を作っていたのだが、そのうちに「旅行をすることで稼げる仕事」を探した結果、ライターという職業にたどり着いたのだ。今の若者だと、「なんとしても、外国に行く。数年かかってもカネを貯めるぞ」という決意は昔ほどには強くない。旅行と仕事を別事項として考えているからではないだろうか。

 

 

1855話 ビデオとカセットテープ

 

 とくに何かのきっかけがあったわけではないが、整理整頓をしたくなって、まずビデオテープを処分することにした。テレビで放送されたアジア映画や、アジア関連のテレビ番組を録画したビデオテープはすでに処分した。今回は、まだ手をつけていなかったタイ関連のビデオの番だ。

 衣装ケースに入れていたテープを取り出した。数十本ある。タイ音楽やタイ映画のビデオで、市販品のほか、バンコクレンタルビデオショップに通って、レンタル商品を「これ、売って!」と頼んで買い込んだビデオだ。これらはVHSでもベータマックスでもなく、PALというシステムだから、そういうビデオが再生できるデッキも買った。今回はその再生機器もいっしょに処分する。プムプアン関連のビデオはひととおり揃っているが、なるべく見ないようにしてゴミ袋に入れた。貴重なら、タイでデジタル化して売られているだろうし、タイ人が「要らない」と考えているなら、もうこの世にないかもしれないが、それはそれでしょうがない。タイ人は、過去の遺産を残すということをあまり重要視しない。遺跡類なら観光名所になるから保存を考えるかもしれないが、大衆音楽の資料はゴミ同然なのだ。だから私は買い集めていたのだが、「まあ、もういいか」という気分だ。

 音楽テープは、何本あるかわからない。50本入りのケースが30ほどあるから、1500本あるのは明らかで、そのほかバラで衣装ケースにも詰まっているから、2000本くらいあるかもしれない。タイ国内で各種タイ音楽のテープを買ったほか、国境でビルマ音楽のテープを箱買いしている。ラオス音楽は、私が初めて行ったときはまだ市販のテープは10本ほどしかなく、2度目に行ったときはVCD(DVDが普及するまでの場つなぎのディスク。画質は、当然悪い)になっていた。カンボジアではタイ国境近くで、カントゥルムというジャンルの音楽テープを買い集めた。ベトナム音楽は、初めてベトナムに行った1996年はすでにCD時代に入っていて、50枚以上買った。カセットテープは買っていない。

 旅先で買ったテープは、バンコクの部屋に持ち込み、一度は聞いた。そして、散歩の途中で見つけておいた堅い段ボール箱に詰めて、日本に船便で送った。カセットケースが重いのだが、だからといってケースを外して送ると、あとで整理に困るわけで、しかたなくケースごと送った。これが毎年の作業だった。1990年代の船便の送料は毎年かなり値上がりしていたが、「もう、買うのはやめよう」とは思わなかった。

 タイ人にとってカセットテープは新聞か雑誌のようなもので、「聞いたら、おしまい」の消耗品だ。車のダッシュボードに置いたままで、炎天下の直射日光に照らされているのを見たら、「きちんと、保管しておこう。もう2度と手に入らないかもしれないのだから」と思って買い込んだ。日本で大量に雑貨を買い込んだE.S.モース(『日本その日その日』)の心境だった。

 今はほとんどタイ音楽を聞くことはなくなったが、ごくたまに、たまらなく聞きたくなることがあるが、YouTubeを探れば、「スナリー ベストヒット」だの、「スンタリー ヒット集」でも、すぐに聞くことができる。「カセットテープは捨ててもいいか」と思ったきっかけのひとつは、このYouTubeだ。

 さて、これから廃棄作業だ。タイ音楽のテープを選別もせずに、上からワシつかみでテープを取り出し、ジャケット写真を見ずに、ゴミ袋に入れた。選別すると時間がかかり、最終的に捨てられなくなるから、テープのジャケットは見ないようにする。でも見えてしまうことがあり、心が痛む。あまり重くなると袋が破れるので、今朝は100本ほどにしておいた。今後、20回以上このゴミ捨てを繰り返すと、ウチからテープはなくなる。次は、本だ。

 

 

1854話 お茶やほかの飲み物の現代史 その4

 

 「旅と水」というテーマをずっと考えている。

 ここ20年ほどのヨーロッパ旅行の場合、数日以上滞在するとわかっている街に着くと、雑貨屋やスーパーマーケットで1500ccか2000ccのペットボトル入りの水を買う。その国に入った時から持ち歩いている500ccのペットボトルに適時、補給していくのがなかば習慣になっている。ショルダーバッグには、この水がいつも入っていて、暑い日だと、午後宿に帰ってひと休みした後、水を補給して午後の散歩に出る。

 ヨーロッパ旅行を始めたばかりのとき、価格だけで選んだ水がガス入り(炭酸ガス入り)で、がっかりしたことがある。ホテルの部屋ではふたを開けたままにして、ガスを抜いていたことがある。水を買うことに慣れてくると、ボトルを触っただけで、「ガスなし」か「ガス入り」かがわかるようになった。ガス入りはその性格上、ボトルが厚手になっているのだ。べこべこの貧弱なボトルなら、「ガスなし」の水だ。そういうコツがわかってくる前に、「ガス入りもまた、うまい」と思うようになり、ガスの有無は気にならなくなった。

 さて、ここで「旅と水」だ。

 1970~1990年代の私の旅は、行き先がどこであれ、水を買うことはなかった。買いたくても、アジアでは売っていないことが多かったのだ。のどが乾いたら、宿でも食堂でも水道の水を飲んでいた。散歩途中なら、コーヒー類を飲み、飛び切り暑い日は炭酸飲料を飲んでいたが、それほど好きではなく、しかも経済的理由もあって、月に1本飲むかどうかという頻度で、のどの渇きは水道の水というのが普通だった。それが、大方の旅行者の常識だった。

 ガイドブックには「生水は飲まないように」などと書いていあるが、だからといって、インドで毎日10杯も20杯も甘い紅茶を飲み続けるわけにもいかず、コーラ類をがぶ飲みしている人もいたが、「水道の水を飲んでいる」という人が、20世紀のアジア・アフリカ旅行者の多数派だったのではないか。このあたりのことは、天下のクラマエ師に解説していただきたい。

 日本人がタダの水にカネを出すようになったのはいつからか。「水を飲むな!」と言われていた運動部員が、正反対の「水を飲め!」と言われるようになったのはいつからか。そのきっかけはなんだったのかと疑問に思い調べたが、いまだによくわからない。わからないから、その周辺を調べてみた。

 1980年代にはまだ生産量が少なかったミネラルウォーターは、500ccボトルが発売された1990年代なかばから生産量が上昇してきた。1994年から発売されてきたスポーツ飲料を、2005年に水が一気に抜き去る。2020年現在、清涼飲料の生産高では、茶系飲料に次いで、ミネラルウォーターが2位になっている。

 スポーツ飲料は、1960年代からアメリカで研究が始まり、スポーツ選手や炎天下で作業する人たちの脱水症状対策として考えられたもので、1965年にはゲータレードが発売されている。間もなく、日本でもライセンス生産が始まるが、販売は成功しなかった。1980年に大塚製薬ポカリスエットを発売し、以後、徐々に日本のスポーツ選手も、水分補給を考えるようになる。

 日本におけるミネラルウォーター元年、つまり急激に売れ出すきっかけは、1994年らしい。猛暑と渇水の夏、給水制限により飲み水にも困る地域がでてきて、日本人が「ボトル入りの水を買う」ようになる。そのころ、「集合住宅の水がまずい!」という話がマスコミでしばしば耳にした。屋上タンクに貯めた水は、匂いなどの点で、たしかに飲料に問題があるものもあったが、「水がまずい!」という風評は、証拠はないがミネラルウォーターの販売戦略だったのではないかという気がする。「大量に水を飲むのが健康法」というキャンペーンも、水販売に加勢した。この時代に、スポーツ指導者の発言が、「水を飲むな!」から「水を飲め!」に変わり始める。私が見聞きした感じでは、「水分を取れ!」と学生生徒が言われる最初の世代は、1980年代後半生まれあたりからだろう。

 清涼飲料に関して、もっと知りたいという人に、次のサイトを紹介しておく。

 平成ミネラルウォーター史

 4回にわたった飲み物の話は、これで終わる。

 

 余話1:連続ドラマのいくつかをチェックした。さまよえる死者や幽霊や死んだのに復活という似た構成のものが多く、「ケッ!」と言いたくなるのだが、見てみればどれも悪くない。そのなかで「ピカ1の傑作!」と言いたくなるのが、バカリズムが脚本を書いている「ブラッシュアップライフ」(日テレ、日曜22時30分)がいい。GYAO!なら1話から無料で見ることができるはず。

 余話2:本の雑誌」でおなじみの目黒孝二さんが亡くなった。椎名誠さんとの対談『本人に訊け』1,2巻を年末に読み、じつにおもしろかったので、引き続き二人の本を読もうとしていた。『本人に訊け』は、この年明けに紹介しようと思っていて、書き溜めた原稿が重なって順延になっていた。いずれ、書く予定ですが・・・・。