1874話 自動車の話 下

 

 今の生活を幸せに思うことはいくらでもあるが、そのひとつは自動車がなくても生活ができる場所に住んでいることだ。都心の便利な場所に住んでいるわけではなく、駅から近いわけでもないが、バス停が近くにあり、バスに乗れば役所の出張所も銀行やショッピングセンターもある地に行くことができる。天気が良ければ、バスに乗らず歩いて行いて鉄道駅や郵便局などに行く。ホームセンターは荷物を持って帰ることを考え、自転車を使う。その昔、原付バイクを買おうかと思ったことがあるが、運動にならないので、徒歩か自転車を選んだ。

 近所におしゃれなカフェやイタリアレストランなどないが、そういう店はもともと必要がない。雑誌やテレビ番組で取り上げられるような店は近所にはないが、そんなものはなくてもいい。日常の、いつもの生活には、自動車は要らない。そういう場所に住んでいる。いままで免許証をとらなかったのは、必要がなかったからだ。

 そこで、いつもの妄想だ。もし、どこか、不便な土地に移住したら、自動車が必要になる。しかたなくそういう生活になるのだが、どういうクルマを買うか?

 時代を現在にすると、すでに免許返納の年齢だから、妄想が進まない。だから、仮に30代独身と言うことにする。移住場所は北海道や沖縄にする必要はない。自動車がないと不便という場所は、東京とはいえ多分、国立や八王子でもあるだろう。千葉や埼玉など首都圏ならなおさらだ。

 車種選びのために必要条件を考える。

雪はほとんど降らない土地に住む。

具体的には東京以南だ。

狭く急坂が多い山林地域には住まない。

小さくても、町がいい。鉄道駅やバス停が近くにないか、そもそも鉄道やバスルートから遠いという場所だから、不本意ながら自動車を持つことになった。

 いたしかたなく、そういう土地に住むことになってしまった不幸な私という妄想だ。その町には友人知人がいて、「名義変更の手続きをしてくれるなら、タダでやるよ」というプレゼントがあったとする。車検の残りがあまりない古い車なら、その可能性もある。「タダのクルマ」なら文句なくもらうか? 自分が持っているクルマで自己主張したいとはまったく思わないので、どのメーカーのどの車種でも乗れればいいのだが、暴走族仕様車だったら、どうしよう? 「どんな車でもいい」といっても、それじゃあ、さすがに下品だよな。維持費がかかりそうだとか、乗りまくっていて信頼性に欠けるといった欠点があるクルマの場合は、どうしようか。大型車だと燃費が悪いしなあ。クルマの横っ腹に、「高橋豆腐」とか「ダイヤ不動産」といった看板がある場合は、それもおもしろいと思うことにしよう。

 軽自動車をくれるというなら、多分もらう。事情次第で、買うこともあるだろう。

 軽トラックなら、どうだ?

 雨でも濡れないバイクと考えれば、軽トラックでも文句はない。高速道路を使って長距離ドライブをすることはないから、乗り心地に関する心配はない。どっちみち、バイクよりも楽だ。ただ、友人知人がはるばる訪ねてきたときに、駅に迎えに行ってもひとりしか乗せられないが、幌をしていれば、内緒で定員オーバーは可能だし・・・などとも思うが、いまのところ軽トラックが最有力候補だ。もちろん中古車屋で値段や程度を見て決めるから、「軽トラックに決定」というわけではない。

 中古車サイトcarviewを見ると、2013年製のスズキアルトは支払総額15万円というから、そのくらいの出費で買えるのだろう。それ以外に諸費用がかかるくらいのことは私でも知っている。雪国で暮らす気はないから、4WDである必要はない。高速安定性とか、0-400加速といった「カーグラフィック」読者が喜びそうな性能は一切気にしないので、アルトで充分だ。例え使いきれないほどのカネを持っていたとしても、自動車に多大なカネを使いたくない。デザインだけで言えば、1960年代のイギリス車が気に入っているが、あんなオンボロ車につきあう気はない。

 

 

1873話 自動車の話 上

 

 モータージャーナリストの三本和彦(みつもと・かずひこ 1931~2022)が亡くなった。私がその存在を初めて知ったのは、彼が司会をしている「新車情報」(1977~2005)というテレビ神奈川の番組だったことは確かだが、自動車にほとんど興味がなく、しかもUHF局の番組をどうやって見ていたのか記憶にないのだが、いつのころからかこの番組を見ていた。見続けた理由は、企業べったりの広告番組ではなく、制限は当然あるものの、言いたいことはいうという番組方針で、フェラーリジャガーだと高額車を紹介する「カーグラフィック」とは違う構成を楽しんでいたのかもしれない。

 番組内容で覚えていることは多いのだが、ひとつだけ書いておく。

 ある日、三本が新車試乗会に行った。試乗するとすぐ、「今度のクルマ、どうですか?」と、自動車会社の広報担当者が三本に聞いた。

 「いや、予想していた以上にすばらしいです。全体的に、すばらしい出来だと思いますよ」といった。賛辞だから、担当者は大喜びをすると思ったら、うつむいている。

 「どうしたんですか? なにか、まずいこと言いました?」

 「いやあ・・・、自動車評論家が絶賛すると、その車はまず売れないんです。だから、困ったなあと・・・」

 私の頭に浮かんだのは、「シネマ旬報」の映画評だ。常連の映画評論家が高く評価した映画はまずヒットしない。映画の世界でも、映画界とうまくつきあって「うまく楽しく紹介できる人」は高収入を得られるが、自分の評価をそのまま発表すると関連企業に睨まれるから貧乏なままだ。

 私自身のことも思い出した。アジア文庫店主大野さんのことば。

 「前川さんが絶賛する本て、売れないんですよねえ、困ったことに」

 三本と同じ時代に自動車評論家をしていた徳大寺有恒(1939~2014)の発言も覚えている。

 深夜番組だったことは覚えている。局も番組名も覚えていないが、1991年か92年だということはわかる。深夜の番組で、新車を特集する放送をやったのだ。進行役が徳大寺だった。なぜ91年か92年だと覚えているかというと、ホンダ・ビートやスズキ・カプチーノといった軽のスポーツカーを特集したからだ。この2車種について、徳大寺は「都内をのんびり走るにはもってこいの車だと思いますよ。都内の道は狭いしスピードは出せないし・・・。だから、こういう小さい車でドライブなんて楽しいですよね」

 それから数か月後にも同じような番組があった。徳大寺は番組のご隠居という立場だった。ゲストのイタリア人だったかフランス人だったかの元レーシングドライバーに、日本の新車を試乗してもらい、感想を聞くという構成だ。用意された車にカプチーノも入っていた。

 元レーシングドライバーはそれぞれの車の感想を語ったが、カプチーノには触れなかった。そこで、司会者が「カプチーノは、どうでした?」と聞いた。

 「ウチの娘が乗るにはいいかもしれませんが、私向きじゃありませんね」

 司会者は徳大寺にも同じ質問をすると、「ダメだよ、あんなオモチャ! 話にならない」と吐き捨てた。

 書評家は、自分で本を買って評論することが可能だが、自動車ジャーナリストは自費で車を買って評論するわけにはいかないから、自動車会社や輸入業者とうまくつきあっていかないといけない。「提灯持ち」に徹すると、読者の信頼を失い、言いたいことを言って批判すると、企業に疎まれる。

 売れっ子の映画評論家だった時代のおすぎは、新作のフランス映画を紹介してほしいという輸入業者の依頼で、「日本ではもう試写会はないので、ニースに行っていただけませんか」ということで、映画を1本見るためにフランス招待旅行に出かけたと語っていた。また、ある映画を徹底的に批判したら、それ以後その会社が輸入する映画の試写を見ることはできなくなったという。

 業者との距離はむずかしいものだ。

 

 

1872話 大学授業料と奨学金

 

 旧知の大学教授と世間話をした。

 「そういえば、今の大学生は、外国に行くこともできずに卒業していくんですね」と私が言うと、「旅行なんてこと以前に、もっと大きな問題が起こっているんですよ」と教授が言った。

 「このご時世だから、親の仕事がうまくいかなくて、店を閉じるとか会社が倒産するといった事態になり、『先生、大学を辞めようかと考えているんですが・・・』という相談を受けることが多くなってね。奨学金も狭き道になっていて・・・」

 フランス文学を専門としている別の教授は、「フランスやドイツなら授業料はタダだから、自分の生活費が稼げれば大学に通えるんだ。親の負担を考えるなら、日本の大学には行かないで、フランスの大学にすればいいんだけど・・・」と言った。

 日本の大学が小中学校と同じように授業料無料にするのはすぐには無理だが、比較的、あくまで比較的だが、「大学授業料無料化」よりも簡単に、苦学する大学生を助ける方法はある。

 選挙制度と同じように入試制度も、ベストはない。ベターのシステムしかない。それを前提とする。私が考えたシステムは、全体的には「大学全入時代」とは逆に、大学生の数を減らすことだ。そうすれば、教育費に苦しむ親が減り、40歳になってもまだ奨学金返済に苦しむ「元大学生」も少なくなる。

、高校生が中心となるが、大学入学希望者は、「大学入試資格試験」を受ける必要がある。大学進学を希望しない高校生は、受験する必要はない。この試験で、最低限の学力もないと判断される足切り点があり、そのレベルに達しない受験生は、大学進学は不可とされる。

、受験科目やレベルによって、いくつかの試験類があり、高校生は2回まで受験可能。高卒者は、年1回受験可能。

、資格試験合格者に対して、大学はそれぞれ独自に筆記や実技政権や面接を行なうことができる。

、大学進学希望者で、大学での授業を受けるだけの最低限の学力はあると認定される者で、しかし学費が払えない環境にある者は、奨学金を受けることができる。

奨学金は、有償、無償の別や、全額支給や半額支給など、バリエーションがある。受験生の成績や家庭環境によって差がある。大学生だけでなく、専門学校の生徒にも奨学金の支給は可能だ。

奨学金の原資は、大学に与えている補助金を充てる。大学で学ぶ気がなく、大学で学ぶ学力のない高校生が進学して、なにも勉強しない学生がいる大学に補助金を与える必要はないので、そういう高校生の受け皿になっている大学への補助金支出は打ち切る。定員割れの大学には補助金を支給せず、したがって経営困難になるだろう。

7、大学の倒産が増えるだろうが、それはいたしかたない。学力や学歴による格差が生まれるが、それも仕方がないことだ。私の考えは、学歴ではなく、学力や腕に技術があるものは、その技術が評価されるシステムも同時に進めることだ。「誰もが無理してでも大学に行く。それだけでいい」という学歴偏重主義は、決して望ましい社会ではない。必要なのは学力であり、学歴と学力を一致させることだ。職人や技術者の知恵と技を高く評価する社会も望ましい。

、大学の数が減り、大学生の数が減れば、学生ひとり当たりにかけられるカネが増えるというのが、基本的な考えだ。

、大学入学がゴールではないから、大学の授業も厳しくなる。その成績によっては、進級が難しくなると同時に、奨学金の打ち切りもあり得る。大学の広告塔を勤める運動部員も、勉強しないと退学になる。

 

 

1871話 私と本屋 下

 

 この2週間で15冊ほどの本を買った。すべてアマゾンを介して買った本で、そのうち10冊はいつもの雑多な本で、ほかは原稿の資料になるかという期待を持って買ったものだ。5冊の中に、『地球の歩き方 世界の麺料理』もある。この本を新刊書店で買わなかったのは、近くの書店にこの本がなかったからであり、電車に乗って大書店に行く交通費を考えたら、アマゾンで買った方が安いからだ。ネットで本を買うと、「内容を確認できない」というリスクがある。アマゾンの「ほしい物」リストに入れておいた本を書店で見つけて内容をチェックすると、「な~んだ、この程度か」とがっかりして、「ほしい物」リストから外すことも多い。知らない著者の本は怖い。ネット書店で買うと、当然「はずれ」もあるが、それは誤差だと考えている。書店で選んで買った本だって、読んでみれば「はずれ」ということもあるのだから。

 数日前に歯医者に行ったあと、久しぶりに新刊書店に行った。文庫の新刊の「顔」をさらっと見たが欲しいものはない。雑誌売り場に行き、おもしろそうなものを探していたら、読書ガイドのムックが2冊あった。

 「POPEYE特別編集 僕たちはこんな本を読んできた」

 「BRUTUS特別編集 合本 すべては、本から。」

 2冊とも内容をチェックした。悪くない作りだが、買うほどのことはないと思った。ていねいに読んだら、欲しい本が数十冊はあるかもしれないが、買ったけどまだ読んでいない本が山になっているので、興味のない振りをしてムックのページを閉じて棚に戻した。よくできたムックだとわかっていながら、立ち読みをして内容をきちんと点検してみようとしないのは、買いたくなる本を見つけてしまうのが怖いのだ。建前ではあるのだが、できるだけ本を買わないようにしているからだ。もう、これ以上、本を増やしたくない。

 私の興味範囲の本なら、読み手ではなく紹介文の書き手になる側で、興味範囲を外れてしまうなら、読む気のない本になるんだから、ブックガイドはいらないなどと、この2冊のブックガイドを買わない理由をあれこれ考える。「本を読みたいが買う気はない」というなら図書館を利用すればいいのだが、昔から図書館の本と相性が悪い。他人の本を、自分のリズムで読むことができない。20ページ読んで、別な本が気になって読み始めたりということをよくするので、期限までに読むことができない。かつて、ものすごい貧乏だったとき、勁草書房の東南アジアの小説や研究論文を集めた全集「東南アジアブックス」を読破したいと思ったが高くて買えず、図書館で借りてノートをとりながら読んだが、そのほぼすべてを後日買っている。「もう一度調べたい」と思った深夜、手元に本がないと困るのだ。

 なるべく本を買わないようにしているというのに、読む機会を逸していた『活字たんけん隊』(椎名誠岩波新書)が先ほど届き(発注したから届いたのだ)、すぐさま読んでいる。近頃集中力に欠けるので、疲れると本の活字からネットの文字に移行して、池内紀の著作を点検して、「ああ、読みたいなあ」と思う本を4冊、アマゾンの「ほしい物」リストに入れた。その流れで、地方小出版流通センターの出版物リストも見る。書肆アクセスはこのセンターが経営していた書店で、私はおもに沖縄の出版社が出している本をチャックしていた。だから今、沖縄の出版社ボーダーインクのホームページを読む。

 読みたい本がいくらでも出てくるというのは幸せなことだ。読みたい本はなく、見たい映画もなく、食べたいものもない「無欲の生活」なんか、楽しいわけはない。

 ブックガイドを買うことにブレーキをかけているが、興味はたっぷりあるがあまり知らない音楽分野なら、ときどきディスクガイドは買う。最近買ったのは、「ブルース&ソウル・レコーズ no.167」(トゥーヴァージンズ、2022,10)の「特集 60年代ソウルの基礎知識。名盤150枚以上掲載のディスクガイド」。ガイドを買ったからと言って、すぐにその「名盤」を買ったりはしないのだがね。そう、私にとってディスクガイドは読み物なのだ。

 

 

1870話 私と本屋 上

 

 スコットランド古書店の話に続いて、私と本屋の話をしてみよう。

 10代は、もっぱら新刊書店で買っていた。中学生時代から神田神保町に行っていたが、年に数回行く程度だから、まとめ買いといってもカネがないのだからタカが知れている。20代に入って神田、早稲田、中央線沿線の古本屋を巡ることが多くなった。新刊書は、「これから出る本」を丹念に点検して、購入候補書籍を手帳に書き込み、書店で現物をチェックするのだが、まだライターになっていない私には今すぐ必要な本などなく、しかも、音楽も本も「新しもの好き」の志向は私にはなく、新刊書を買うことはしだいに少なくなってきた。

 ベストセラーにはまったく興味がない。小説を読まないから、「あの作家の新刊を」という気持ちもない。目黒孝二さんは、趣味と仕事で、新刊を真っ先に読んでいたから、日に何度も新刊書店に行って、入荷した本の点検をしていたという。「本の雑誌」の連載「新刊めったくたガイド」の資料が必要ということもあったのだろうが、もともと新刊好きだったのだろう。

 私は、20代後半ごろには、自分が読みたい本の方向がほぼ決まっていた。

 小説も宗教書も自己啓発本も読まないから、読書範囲が狭いかもしれないが、「雑多な本が好き」という意味では、小説ばかり読んでいる人よりも読書範囲は広いかもしれない。私が読みたい分野の本は、珍しいものではないが、どこの本屋にもあるというものではなく、しかも新刊書にはあまりないから、どうしても古書店に通うようになった。具体的にいえば、中公文庫や中公新書NHKブックスなどの既刊書で、その多くは「品切れ,増刷未定」だから、欲しくても新刊書店では手に入らない。

 例外が、神保町すずらん通りにあった2軒の書店で、どちらもよく行った。1軒は、地方や小出版社の本を扱う書肆アクセスで、もう1軒はアジア文庫だ。さまざまな研究機関などからの報告書や自費出版物など、ほかの書店では手に入らない、もしくは手に入れにくい出版物を、この2軒の書店で買っていた。タイに深くかかわっていた時代は、タイでも本を多く買っていたので、日本の新刊書店で本を買うことは少なくなっていた。

 コロナ前までは、月に1度は神保町に行っていた。いつもの習慣として、三省堂東京堂、書泉といった新刊書店には立ち寄り一応は新刊書をチェックするものの、買うのは、年にせいぜい10冊くらいだろうか。その昔、読みたかったがあまりに高額だから買えなかった本が文庫で復刊とか、単行本未発表の原稿を集めた本などを特に点検した。ここ15年ほどは、本よりもCDを買うことの方が多くなった。

 スコットランド古書店主が嘆いているように、2000年代以降、私もアマゾンが気になる人間になった。私はスマホを持っていないから、神保町の書店で、アマゾンの値付けと比較するようなことはしないが、「う~む」と唸ることはある。

 こういうことだ。三省堂で、すぐに読みたい本が見つかった。2800円だ。「よーし!」と思い切ってすぐ買った。帰宅してアマゾンで調べると、出たばかりの本なのにマーケットプレイスで送料合わせて2100円で売っていた。こういうときは、「まあ、そういうこともあるさ」とあきらめることにしている。2400円の本がブックオフで1750円の値がついていたが、アマゾンで送料込みで650円ということもあった。そんなことは、よくあることだ。

 今、思い出した。新刊書を安く買っていた時代があった。1980年代の話だ。その古本屋には出たばかりの本が多く置いてあり、かなり安い。「なぜこんなに新刊ばかり・・・」と思っていた。ある日、買った本に「乞う、高評」と書いた紙が挟んであって、出版社から送られたことが明らかだ。「そうか!!」と気がついた。その古本屋の近くに出版社があり、そこの雑誌編集部宛に、書評用の本が大量に送られていて、それを毎月売却し、編集部の飲食費などにしていたのではないか。あくまで想像だが、まあそんなところだろう。残念ながら、その古本屋はとっくの昔に閉店している。

 

 

 

1869話 古書店主の日記 下 

 

 アマゾンに敵意を燃やす古書店主の話を2回にわたって書いた。「訳者あとがき」に後日談が書いてある。著者のアマゾン憎悪はますます強まり、アマゾンを介した販売をやめて、自前の古書サイトを立ち上げた。しかし、だ。この日記を含めた彼の著書3冊は、キンドルで好調な売れ行きを示している。

 「腹ペコのときにベーコンロールを勧められたヴィーガンの気持ちがやっとわかった」と著者は書いているという。日本語で言えば、「背に腹は代えられぬ」か。

 この日記によれば、値切る客が多いようだ。「まとめて大量に買うから安くしろ」というのではなく、1冊の本でも値切るという日記の文を読み、新刊書ではない古い本は、古いテーブルやアクセサリーと同じように考え、骨とう品店で値切るのと同じだと考えているようだ。古本屋商売に慣れていないということか。古い本が店内に積んであると、「どうぞご自由にお持ち帰りください」という意味だと理解する人がいるという。これも、古本屋を知らない田舎町だからか。商品を勝手に持ち帰るということで思い出したのは、「旅行人」の初期も、ブックレットのように薄い冊子で、レジ近くに置いてあると、出版社の広報誌のように、タダだと思う人がいるので、「デザインに工夫を」と書店から依頼されたと発行人がエッセイで書いていたっけ。

 思い出すと言えば、値切ったり、エンピツで書いた値段を消して安い値を書き込む客がいるという記述を読んで、植草甚一も同じことをやっていたのを思い出した。店が書いた値を訂正するのは、単に安くするという行為ではなく、「この本にはこの程度の値段がふさわしい」という植草なりの訂正だったのだろう。

 店では売れないことがわかっている本を、オークションで仕入れてくることがあるという話は、こういうことだ。「そこそこ豪華な装丁の全集」は、「オークションでアンティーク家具ディーラーに売れる。というのも、彼らが本棚を売ろうとするとき、見ばえのいい本が入っていたほうがずっと売りやすいからだ」。

 日本の書店主の話を思い出す。家を新築した成金から、「壁を飾るのにかっこいい本を、100万円ばかし、持って来い」というものだ。私の乏しい知識だが、革装金押しの豪華装丁だけの全集は、成金向けの通販で扱うらしい。内容は著作権が切れた文学全集だ。しかし、書籍の歴史の差で、「豪華に見える本」は、日本にはあまりない。そういえば、古本屋店主が、「ドラマに使うので、高そうに見える本を大量に貸してくれ」という注文があったという話をしていた。大作家やカネを持った大学教授の自宅セットに使うという。

 本の話ではないが、この本の最期あたりにあるこんな文が、日常を感じさせて好きだ。

 「注文を二件まで印刷したところでインクが切れたので、純正品ではないカートリッジに替えたところ、コンピューターがフリーズして、本機は純正カートリッジ以外では作動しませんというHPのメッセージが出た。しかたなく純正品をオーダーしたが、これで注文の本を発送できるのは水曜日になるから、悪い評価がついてしまうだろう」

 アマゾンの評価ということで、私にこういうことがあった。注文した本と共に売主の「お願い」が封筒に入っていたことがあった。それによれば、5★が満点の評価の3★は、日本の評価基準では「まあまあ、普通」なのだが、アマゾンは「2ポイントの欠陥・問題点がある評価」で、5★は「最高」ではなく「問題ナシ」という評価基準だから、問題なしなら5★評価にしてくださいというものだった。

 なるほど、売主もつらいのだな。

 

 

1868話 古書店主の日記 中

 

 日記から、いくつかの文章を紹介する。悪態をついている個所は説明が面倒なので、わかりやすい記述を集めたから、毒は強くない。

 本に限らず、通販をやっている人なら、「そうそう、そうだよ!」と言いたくなる例が出てくる。品物は到着しているはずなのに、「着いていない。返金せよ」というもの。「期待していたほどおもしろくなかったので、別の本を送るか、返金せよ」といったもの。こういうメールに対して、悪態をつく。以下は、日記の要約。

 2月25日 主を失った家の蔵書整理に行く。「蔵書を撤去するということは、その人の存在を完全に破壊することである――どんな人間だったか最後の証拠を自分が消してしまう・・・・

 3月25日 『スターリン――赤い皇帝と廷臣たち』の定価は25ポンドで、店の売値は6.50ポンド。その値を「高すぎる」と文句をいいながら店を出ていくあきれるほど横柄な老婦人。「この客はきっと戻ってくると思ったので、値札を8.50ポンドにつけ替えておいた」。

 日記全体を通して、売値を「高い」と文句をいう客が多いと嘆くシーンが多い。古本だから、二束三文に違いなく、タダか捨て値に違いないと思っている客が多いのだ。定価3ポンドの本に、8ポンドの値札がついているのを、「ぼったくり」と抗議が来る。いずれも、古本になじみのない人たちだ。

 4月25日 『ハリー・ポッターと死の秘宝』の初版は高く売れると期待する客がいるが、「初版だけで1200万部も刷られている」。イアン・フレミングの『カジノ・ロワイヤル』の初版(ハードカバーの初版)は4728部しか刷られていない。

 5月の日記の冒頭 「一般的にいって、(少なくともぼくの店では)小説を買うのは今でも大半が女性で、男性はまずノンフィクションしか買わない」。

 6月18日 「アメリカ人女性が児童書コーナーから本を抜き出しては、ノートパソコンでアマゾンの値段を調べていた。まったく悪びれもせず、私の目の前で」。これは、日本の書店でもいるだろうな。ブックオフスマホを片手に調べているのは、アマゾンで売れば儲かるかどうか調べているのだろう。この日記には、アマゾンへの敵意が随所に見られるが、この客のような行動も店主の怒りを誘う。「お宅の本は、アマゾンよりも高い」とか「値下げしないなら、アマゾンで買うわよ」というのもある。古書はアマゾンよりも安いことがある。「アマゾンなら安い!」と文句を言う客に、「この本は、ほら、ウチはアマゾンよりも安いですよ」とモニターを見せて説明すると、聞こえなかったかのように店を出ていく。とにかく、いちゃもんをつけたくて店に来る人が多いようだ。「こういう本は、お宅にはないだろう、あるかい?」と、語りかけてくる男がいる。「そんな珍しい本を、アンタは知らないだろうな」」と知識自慢をしたいようだが、「ありますよ」というと、黙って店を出ていく。本を買いたいのではない。自慢したいだけだ。

 12月9日 老人がラテン語の教科書を手にカウンターに来た。本には元の持ち主の署名がある。「父親が持っていた本だ」。「本の値段は4.50ポンドだったが、ぼくはお金はいらないから持って行っていいですよと言った」。

 19世紀にイタリアで出版された『ボッカチオ』の話も興味深い。遺品整理で買った本の中にあった1冊だ。持ち主は、イタリアから移住するときに持ってきたが、その持ち主はもうこの世にいない。その本を店で売っていたら、イタリアからの旅行者が買っていった。本は、イタリアに帰る。

 12月23日 「新品を注文したのに、中古のようなので返品する」というメモがついて、発送した本が戻ってきた。ジョン・マコーミックの『風に翻る旗』は、カバーが古びた感じにデザインされているが、新品だ。日本でも、誰の本だったか忘れたが、白いカバーの端をわざと汚れたようにデザインした本があったなあ。書店でもめたらしい。

 「旅の本屋のまど」のスタッフから、この本の読後感を聞きたい。