1867話 古書店主の日記 上

 

 新刊でも古書でも、かつては書店主が書いたエッセイをかなり読んでいたが、最近はすっかりご無沙汰している。最後に読んだのは、『ぼくはオンライン古本屋のおやじさん』(北尾トロ風塵社 、2000)だと思うから、もう20年以上読んでいないことになる。ただ、神田神保町にあったアジア文庫店主の大野信一さんが書いた『アジア文庫から』(アジア文庫の会、2010)は、私が編者のひとりだから、これは例外だ。

 久しぶりに読んだ本屋のエッセイは、スコットランド古書店主が書いた『ブックセラーズ・ダイアリー』(ショーン・バイセル、矢倉尚子訳、白水社、2021)だ。これが、じつにおもしろかった。著者の毒舌と皮肉はジョン・レノンや、イギリスのテレビ司会者で自動車番組「トップ・ギア」で知られるジェレミー・クラークソンを思い起こさせる筆致だ。

 2001年のクリスマスのこと、スコットランドのウィグタウンの古本屋にふらりと立ち寄った30歳の男は、本を買う代わりに古書店を買ってしまった。衝動買いだったという。その古書店、「ブックセラーズ」という当たり前すぎる名前の古書店は、20年後、20万冊の在庫をかかえるスコットランド最大の古書店になった。

 この古書店日記は、2014年2月から1年分をまとめたものだが、ところどころに開店当初の話が出てくる。出版業界に多少の興味がある人なら、2001年がどういう時代だったかわかるだろう。アマゾンはすでに存在していたが、まだ黎明期だった。新刊書だけ扱い、「古書ではエイブックスが唯一の本格的プレーヤーだった」が、そのエイブックスは2008年にアマゾンに買収されたという説明を読んでいて、「エイブックス?」と疑問に思った。調べてみると、Abe Booksだ。「アベ・ブックス」ではないことはわかっていたが、なんと発音するのかわからないまま、私も使っていたことがある。欲しい本をこのサイトで検索すると、「5軒で販売しています」と回答が出て、シドニーとパリとロンドンと・・といった具合に販売者がわかり、購入手続きをすれば買うことができる。今、Abe Booksを調べると、これはAdvanced Book Exchange(先進的な書籍取引)の頭文字をとった社名だとわかった。

 アマゾンは日本では2000年に新刊書の通販を始めているが、古書は楽天や個人のインターネット古書店があった。このコラムの冒頭で揚げたライター北尾トロ氏も書店を始めていた。インターネット遊びをしていたら、『おまえも来るか!中近東』(1972)の書き手のひとりとして記憶に残っていた森本剛史の名前が見つかり、ライターをやりつつ旅行関連の本を扱うネット古書店をやっていると知った。在庫リストを見たが、読みたい本はすでに持っているから買うことはなかったが、ときどき販売リストを見ているうちに、「閉店のお知らせ」を読んだ。そしてしばらく後に、代官山蔦屋書店の「旅行書コンシェルジュ」として、マスコミで取り上げられる姿を見た。

 その当時、インターネットで遊ぶと、旅行書専門の古書店がいくつかあることがわかった。販売リストを見ると、やはりすでに持っている本がほとんどで買いたくなるような本はなかった。熱心に検索したのは、「スーパー源氏」と「日本の古書店」のふたつで、「日本の古書店」の方はいまでもときどき調べる。このサイトで買っていたのは、明治大正昭和戦前期に出版された旅行記や留学記や、戦後はせいぜい1960年代までの本で、こういう本を販売している旅行書専門の古書店はなかった。そうこうするうちに、アマゾンに古書も扱う「マーケットプレイス」ができて、クレジットカード決済だから、銀行に行く必要がなくなった。銀行の振込手数料も要らなくなり、アマゾンへと注文が集中するようになる。思えば、あのころ、1950年代から60年代の旅行書の多くは二束三文の値段がついていて、そのおかげでだいぶ買い集めたのだが、近頃は団塊世代を意識したのか、今では数万円の値がついている本もある。いくらでも値をつけるのは自由だが、その値段で売れるとは思えないが、それは部外者の余計な感想だ。スコットランド古書店日記を読んでいると、アマゾンとともに消えていったネット古書店のことをいろいろ思い出す。

 書店主のネット日記で、今でもときどき目を通すのは「旅の本屋のまど」のもので、いまはツイッターだがブログ時代から時々読んでいた。あの店主日記を1000倍の毒を注入したのが、スコットランド古書店主の日記だと言っても、本の内容はわからないだろうから、次回に少し紹介してみる。

 

 

 

1866話 体調不良

 

 長い間、「体調不良」というのがどういうものか、まったくわからなかった。風邪をひいて熱があるとか、扁桃腺がはれてノドが痛いということはあっても、「体調不良」というものがどういうものかわからなかった。体の具合が悪くても、翌日か翌々日には回復していた。

 体の調子が数日悪いということは何度かあり、「熱はないのに体がひどくだるい」と気がついて数日後に、心筋梗塞で入院した。

 ところが、である。

 長期間の「体調不良」の経験がなかったのだが、20年近く前に、それが来た。年明けから体が重かった。何もやる気がしない。動くのも嫌だ。買い物など、日常最低限のことはするが、それ以上何もする気がなくなった。4月からは大学の授業が始まるから、体がこのままなら、大学に知らせて代理の講師を立ててもらわないといけない。連絡を入れるなら早い方がいいのだが、あと2週間では間に合わないだろう。

 病気のことを考えていると気が重くなり、もしかすると重態ではないかと心配になり、もしかするともう手遅れかもしれない。自分には、「もう来年はないのかもしれない」などと考え始めるとますます落ち込んだ。この事態をすぐさま何とかしようと、行きつけの病院の夜間外来に出かけた。幸運にも、その夜の当直が、前年に心筋梗塞で入院した時からのかかりつけ医で、その後も2か月に一度診察を受けている担当医だ。すぐさま検査と診察をしてくれたのだが、「とくに悪いところはないので、しばらく経過を見ましょう」ということだった。

 誤解のないようにもう一度言っておくが、現在の話ではなく、20年近く前の話だ。

 4月になった。授業をしなければいけない。大学にたどり着けるか不安だった。こわごわ家を出て、なんとか大学までたどり着いたが、いつものように立って授業をする体力はなく、座ったまま授業をした。

 翌週の授業は、まるでなにもなかったかのように、いつもの元気を取り戻し、以後「体調不良」とは縁が切れた。あれは、何だったのか。原因はわからないが、「もしかして・・・」と想像できる原因がある。

 その年が明けると、我が家の外壁工事が始まった。1度塗ると、完全に乾くまで時間がかかり、それに加えて作業員の手配の問題もあり、数週間に1度の工事が3回か4回続いた。念のために、ベランダの防水工事もやった。工事中、我が家全体が透明ビニールシートで覆われていた。

 多分、ハウスシック症候群ではないか。確証など何もないが、塗料にやられたのではないか。1月から始まった外壁工事は3月末に終わり、4月の2回目の授業のときは体調が回復したから、工事と体調の関係は説明がつくが、もちろん科学的証明はできない。

 私は、ニオイに弱いのだ。化粧品、芳香剤の類が苦手だ。洗濯洗剤はまだ我慢ができるが、柔軟剤が苦手だ。デパート1階の化粧品売り場は足早に通り過ぎる。できることなら、呼吸を止めていたいと思う。日本中からデパートが撤退しているのは、僥倖である。  夕方まで、まだちょっと時間があるという時刻の電車内で異臭を感じたことがある。駅から乗り込んできた女の香水の類の異臭がすさまじいのだ。その姿から、「美容院に寄ってから、お店に」というストーリーが想像できる。幸運にも、その手の女性とエレベーターで乗り合わせたことはないが、もしそういう拷問にあったら、すぐに途中で降りる。芸能人が、そういう人とエレベーターで一緒になって、苦しかったという話をラジオでしていた。その「犯人」の名隠していたが、話の流れでデヴィ夫人かIKKOのどちらからしい。

 食べ物では、ゆず、ショウガ、ニンニク、シソ、ネギは好きだが、パクチーをはじめとするタイのハーブ類が苦手だ。我慢ができない。無理して口に入れることもしたくない。食卓から消し去りたい。地球から消えてほしいくらいだ。それなのに変なのは、チーズはとびきり臭いのが好きだから、日本製に多い無臭のチーズは物足りない。でも、クサヤは嫌いだから、私の「クサイ」の実態は、自分でもよくわからない。

 

 

1865話 空の旅の食事 下

 

 『空と宇宙の食事の歴史物語』は、前回紹介したように、おもしろいエピソードが詰まっていて、「電子レンジ爆発事件」など紹介した話がまだ数多くあるのだが、きりがないので自分で読んでください。

 この本を読む私自身の欠点は、飛行機を知らないことだ。機械が苦手だから、飛行機という機械に興味がなく、何度乗っても、自分が乗っている飛行機の機種がなんだか知らない。ひょんなことで知ったとしても、すぐに忘れる。ジャンボ機こと、ボーイング747だけは、その姿をちょっと見ただけでわかるような気がするが、バリエーションが多いから、それぞれを見分ける自信は毛頭ない。

 『空と宇宙の・・・』には数多くの飛行機が登場するのだが、その姿が頭に浮かばないから、読書を中断して、旅客機の本を次々と注文した。戦闘機や爆撃機には興味がないから、「飛行機の本」ではなく、「旅客機の本」だ。旅客機について知りたかったことのひとつは、「あれは、どういう旅客機だったのか」という疑問を解明したいということだった。

 1970年代の末、当時の名前で言えば、ビルマのラングーン空港。小さな空港だから設備らしいものはない。ビルマに来たときはタラップから地上に降りて、ターミナルに歩いた。出国時は、ターミナルからすぐ目の前に停まっている飛行機までは歩いていく。尾翼下に階段が下がっていて、乗り込む。アクション映画などでは、軍用機にこういうシステムのものがあり、機体後部の下から乗り込んだり、空中で落とされたりするシーンがある。

 あの尾翼下の出入り口はなんだという疑問は、すぐにわかった。専門用語では、エアステア、意訳すれば「空中階段」だ。小型機や、空港の設備がない小さな空港では、機体の壁や床を外に押し出して階段にするこの方式が採用されているらしい。

 私が乗った機種は、ダグラスDC-9か、ボーイング727らしいが、どちらも尾部にエンジンがありT字尾翼垂直尾翼の上に水平翼がついている)があるから、かすかな記憶ではどちらか判断がつかない。だからといって、問題はなにもない。

 旅客機の写真を見ていて気がつくのは、飛行機マニアという人はが外見が気になるが機内はさして気にならないらしい。「エコノミーなら、どこの会社の飛行機も同じようなもんだろ」と思うかもしれないが、そうでもない。

 1975年に乗ったソビエトの国内線、ハバロフスク・モスクワ線の機内が長らく気になっている。「イリューシン」という機種名は記憶にある。いろいろ調べたら、アエロフロートイリューシン62(Il62。ラテン文字はわかりにくいが、大文字のIアイに、小文字のlエルだから、アイエル62)。1963年の初飛行だというが、機種名は62となっている。製造年が1962年なのか。

 この飛行機最大の特徴は、隣りの人と話をするときでも怒鳴らないといけないほどエンジン音が騒がしいことと、エンジンの上に座っているかのような振動が絶えず続いていることだ。旅行業界では、「空飛ぶ電気アンマ」と呼んでいたらしい。機内風景で驚くことは、通路に階段があることだ。

 この写真で、あの姿が少しわかる。通路の途中にギャレー(台所のような施設)がある。

 通路と段差があるのだ。この写真では段の上の両側がギャレーになっているが、私が乗った旅客機は、段の上の左側がやはりギャレーなのだが、右側は洋服屋の試着室のようにカーテンがかかった小部屋があり、そのカーテンを開けると、通称アサガオ、変色しているが正式名男子小用便器が壁に取り付けてある。普通は見かけない小さな便器だった。尿臭がした。ハエが飛んでいる。高度を飛んでいるとはとても思えない設備で、おそらく輸送機をちょっと改造したものだろう。

 旅客機の写真集で、こういう機内写真も見たかったのだが、見かけなかった。中南米やアフリカを飛ぶ飛行機なら、かなり刺激的な内装の旅客機もあるだろうが、飛行機マニアはそういう写真を好まないらしい。

 

 

1864話 空の旅と食事 上

 

 気球から宇宙の旅まで、飛行中の食事のあれやこれやの雑学を詰め込んだのが、『空と宇宙の食事の歴史物語』(リチャード・フォス著、浜本隆三・藤原崇訳、原書房、2022)だ。私好みの全方位雑学だから、うれしい付箋がいくつもついた。

 人類最初の空中食は、1783年のパリ、気球で口にしたシャンパンだったらしい。冷製チキンとワインの食事は、1785年にイギリスの空に浮かんだ気球でのことだったらしい。

 飛行船には、高級レストランと同じような内装とサービスの食堂があった。飛行船と言えばツェッペリン号が有名で、この飛行船にちなんだ食べ物としてリトアニアのツェペルナイが紹介されている。この料理は、雑語林1337話ですでに紹介しているから、旧知の間柄だから懐かしくなった。

 飛行機の時代に入り、積み込んだ料理を温める方法に関する試行錯誤がおもしろい。ボーイング社の技術者は、エンジンの熱を利用できないかと工夫したが、機内では騒音がひどくなり排ガスが充満してしまい、失敗。ほかの方法も考えたが、加熱は無理で、せいぜい保温しかできなかったという。1930年の話だ。

 1920年代後半は飛行艇の時代だったという。飛行機は鉄道の2倍の速度、船の4倍の速度で飛行する。しかし、飛行機に対する信頼感は低かった。そこで注目されたのが飛行艇だった。エンジンが不調でも水上に不時着すれば、助けを呼べる。空港を作らなくてもいいという利点もある。飛行艇の欠点は重く遅いということで、速度を重視するようになって、飛行艇から飛行機へと移っていく。

 座席の背もたれに、折り畳み式のテーブルが格納される方式は、パン・アメリカン機DC-4(1942年~)からだという。

 機内食に関して、スカンジナビア航空がやった「工夫」も、興味深いエピソードだ。冬にスカンジナビアに来る客はほとんどいないから、旅客獲得のために、アメリカから南ヨーロッパに旅する人に、スカンジナビア経由便を売り込んだ。航空業界の規定で、機内食はサンドイッチと決められていたのだが、スカンジナビア航空は、パンの上にエビ、キャビアやロブスターなどを出したので、たちまち人気を博した。客を奪われた競合他社は、IATA(国際航空運輸協会)に訴えた結果、「サンドイッチは、冷たく、その大部分がパンかそれに似たもので構成され、飾り気がなく、一体感があり、キャビア牡蛎、ロブスターなどの具を含んではいけない」と規定した。IATAに加盟してる大手航空会社はこの規定を守る義務があるが、非加盟の航空会社は独自のサービスをやっていた。

 私が旅を始めた1970年代の記憶を掘り起こすと、IATA加盟の航空会社では機内で飲むアルコール類は有料だったと思う。非加盟の会社は無料だったようだが、酒を飲まない私は、実はよく知らない。エア・インディアで帰国したばかりの日本人が、こんなことを言っていた。

 「機内でビールを勧めるから2本飲んだら、あとからぼったくりの請求書を出され、『カネを払え!』だよ。きったねえ商売をやりやがって」

 「エア・インディア機内はインドなんだから、値段も聞かずに注文する方に問題があるような気がするな」と、私。

 

 

1863話 タイ警察と汚職

 

 以前、タイ警察と汚職の話を書いているが、読んだ人はわずかだろうし、そのわずかな人も内容を覚えていないだろうから、同じことをまた書く。

 タイが立憲君主国となるのが1932年で、近代的な警察もそのときに誕生している。しかし、「近代的」とは名ばかりで、警官の成り手もいないし、予算も少ない。予算に関して、政府は「不足分は、独立採算で努力せよ」という方針だった。警察がカネを稼ぐというのは、つまりは汚職だ。出入国管理は日本では法務省の管轄だが、タイは警察が管理している。だから、国境の警備も警察の仕事で、麻薬などの密輸も重要な仕事のひとつになる。ということは、麻薬貿易は警察が握っているということになる。カネを稼いでいる外国人も、警察の手の中にある。バンコクのパッポンなど歓楽地は、売春と麻薬の本場だから、そこを支配する警察署は、裏金の金庫になる。政府は、予算を与えない代わりに、副業は黙認するというのがその伝統だ。だから、警察の汚職は、一部の悪徳警官の犯罪行為ではなく、周到に練られたシステムなのだ。

 麻薬や売春など、カネになる場所の警察署長は、本部のしかるべき人物に権利金を支払って、その地位を買う。警察署長が新聞のインタビューで、地位を買ったと答えていたくらい公然と行われていた(現在は、どうかな?)。

 警官がワイロで稼ぐ目的は、私腹を肥やすというだけではない。タイ警察は日本のヤクザにも似て、上納金が必要なのだ。裏で稼いだカネは上司に渡すことで、出世を期待する。カネを受け取った上司は、そのまた上司にカネを収める。そして、その上に…というように、ピラミッドの頂上にカネが登っていくシステムだ。新聞の情報だが、ある警察署では、裏で集めたカネの分配率は決まっていて、上納金のほか、装備拡充費(無線やトラック購入費など)、そして慶弔費など、使い道が決まっているという。つまり、裏の予算だ。汚職は出来心や邪心によるものではなく、整ったシステムである。

 バンコクの貴金属店の警備は警官の副業だ。店主は地元の警察署に警備を依頼し、非番の警官が交代で警備にあたる。費用は署に支払い、仕事をした警官にも分配される。これがシステム化された副業なのだが、裏の副業について新聞記事で読んだことがある。選挙が公示されると、「警察は殺し屋の行動調査を開始した」という記事が出た。政敵を暗殺することがよくあるからだ。そしてその後、バンコクの路上で銃撃戦があったという記事。政治家VSヤクザの地上戦で、兵隊となって戦っていたのは現職警官だったというのが、その記事のオチだ。

 軍はまったく別のシステムで構成されている。事情通は「今は、もうないですよ、きっと」と言っていたが、かつて陸軍の収入のかなりの部分が麻薬取引という時代があった。べトナム戦争時代だ。反共を主導するアメリカは、タイの軍隊と、国境を警備する警察の双方に、武器や活動資金を与えた。強大な力を得た軍と警察は、麻薬ビジネスで競合関係にあるので、権力争いを繰り返した。その結果、バンコクの官庁街で銃撃戦が始まり、軍事力に勝る軍が勝利し、以後、警察は軍に頭が上がらない。

 そこで、警察はこまごました「事業」で小銭を稼ぐようになる。商店や会社を巡る警官の話を聞いた。商店や会社に突然入ってきて、部屋の隅々を眺める。国王の写真を探すのだ。写真がないと「不敬だ!」と騒ぐ。写真があっても小さいとかなんとかいちゃもんをつけて、「まあまあ、今日のところは、これで・・・」とカネを持ってくるまで嫌がらせをする。「国王の写真を掲げているのは、国王を尊敬しているというだけじゃなくて、警察から嫌がらせを受けないようにする対策でもあるんですよ」とある会社社長は言った。

 軍は、武器輸入にまつわる裏金収入があるだろう。また、軍は建設会社でもあり幅広く事業を展開しているから、部下に上納金など求めない。大企業は、王族や軍の高官を顧問に迎えないと、事業に支障が出る(支障が出るように、妨害を受ける可能性がある)。どこまで合法であるかは別として、でかく稼ぐのが軍だ。運転手を脅して、1000円、2000円の小銭を集めるから、市民から嫌われる警察とはまったく違う。金銭も含めて、上官が部下の面倒をみるというのが軍だ。上官は、カネを持っている。日ごろの宴席から慶弔など、軍が面倒をみるから、忠誠心が育つ。部下からカネをふんだくる警察では、そういう忠誠心は育ちにくい。

 警察にしても軍にしても、汚職は「出来心」でやるものではなく、歴史的活動なのである。それがわかっていないと、「公務員の給料が安いから、汚職に手を染める」などと、わかったような理屈で説明するライターが多いのだ。

 このコラムの主な資料は、"Corruption and Democracy in Thailand"(Pusuk Phongpaichit & Sungsidh Piritarangsan , The Political Economy Centre, Chulalongkorn University, 1994)

 

 

1862話 貧困とワイロ

 

 フィリピンの、「カネがあれば何でもできる」刑務所のことが報道されると、自称ジャーナリストや、自称「フィリピンに詳しいライター」といった人たちが、「警官の給料が安いから、汚職に手を染めるんですね」と、もっともらしい解説をしている。タイの警察に関しても、同じ解説をしている人がいた。

 よく考えて、モノを言いなさいと、小言を言いたくなる。

 警察官の給料が安いから汚職をするというのなら、警察幹部や軍の将校、国会議員や官僚たちは高収入を得ているから汚職とは無縁のはずだが、そんなことはまったくないと誰でも知っている。汚職はシステムなのだとわかっていないと、トンチンカンな発言をしてしまう。

 公務員の給料が安いかどうか、私には判断できない。「安い」と仮定して、それでも公務員になり、その仕事を続けている理由は、安定感や、使命感や、うま味、信頼感などいろいろあるだろうが、汚職に関係できるのは、「うま味」がある職種だからだ。警官は汚職に手を出すが、小学校教師はワイロで富を築くということはできない。警官や許認可権を握っている公務員が汚職で儲けているのは、権力があるからだ。「私の判断次第で、何とでもなるんですよ・・・」ということになれば、誰でも逮捕できるし、許認可申請書を握りつぶすこともできる。いつも公務員が悪者ではなく、もちろん公務員を利用する者たちもいる。「お主も悪じゃのう」と言われる業者も、もちろんいる。持ちつ持たれつなのだ。

 以下は、いくつもの記事を読んで知った話で、出典をいちいち明記しない。「そういうことはあるだろうなあ」という話だ。

 いまもあるようだが、ヤクザがフィリピンに行って射撃の練習をするというツアーがあった。軍や警察が営業する合法的な射撃場もあるが、カネさえ払えば自動小銃なども撃てる非合法射撃もできる。ヤクザ御一行様は、銃撃を楽しみ、酒と女の日々を過ごし、帰国するときには、運転免許証を渡される。免許証なんか、カネで買えるから、顔写真さえ渡せば、簡単に買える。日本に戻った御一行が日本の免許に書き換えれば、有効な免許証になる。

 こういうシステムはまずいと考えた日本政府は、「免許取得後90日以上、その国に滞在したことをパスポートなどで証明せよ」と、制度を改め現在に至る。ただし、どの国の免許証でも日本で書き換えができるというものではないらしく、明記されない規定で、「あの国の免許はまったく信用できない」という要注意国があるらしい。

 ここからは、1990年代のタイにおける私の体験を話す。

 タイの運転免許のことを調べていたら、こういう話を聞いた。日本で言えば陸運局のような役所で、いくつもの書類を添えて運転免許証の申請をするのだが、申請書に現金を添えて提出すれば、すぐさま免許証が手に入るのというのだ。「あんたのように、外国人だとわかると相場は高くなるけど、大丈夫。買えるよ」という、その金額をよく覚えていないが、せいぜい数千円程度だったと思う。タイの運転免許証があれば、日本で書き換えればいい。日本で運転する気はないが、身分証明書としては使える。そのころは毎年タイに半年滞在していたから、「90日以上滞在」の制限には引っかからないが、その時は帰国までひと月という時期だったので、「来年の楽しみにしておこうか」と思った。

 日本で半年を過ごし、再びタイに戻ってきた。運転免許証の手続きを再確認しようとしたら、「あの時とは、事情が変わってねえ」と知人が言う。免許証発効窓口だけが大儲けするという汚職システムに他の部署から文句が出て、実技試験もちゃんとやるようになったというのだ。それで、私の免許取得遊びは中止になった。

 そのころ住んでいた地区に、タクシー運転手のたまり場があり、免許の話を聞いた。運転手の中に、つい最近免許をとったというドライバーがいた。役所で、実地試験の申し込みをしたら、場所と日時が指定された。場所は、王宮前広場だ。陸上競技場よりもまだ広いトラックのような場所だ。

 指定された日の朝、王宮前広場に行くと、バインダーを手にした男が車の脇に立っていた。「実技試験を受けに来た」というと、「あんたたち、ホントに乗りたいの?」と、集まっていた者たちに男は言った。「試験やるって、めんどくさいじゃない。ちょっとしたカネで、合格ということにしない?」というので、受験者全員が手を打って実地試験合格書類を買ったという。ひとり数千円でも、10人いれば試験官にとっては月収分以上になる。

 話をフィリピンに戻す。フィリピンと日本それぞれの裏社会の関係は、ボクシング興行が縁で、戦前からあった。戦後は芸能、水商売、売春、銃器などで、やはり両国の裏社会に深い関係ができた。日本で事件を起こした者は、フィリピンに逃げるというのは、そういう伝統のなせる業で、最近の韓国映画も、訳ありの人物がフィリピンに逃げるという筋書きがある。タイもフィリピンと同じような交流関係にあるが、その歴史と伝統はフィリピンの比ではない。

 フィリピンに詳しいジャーナリストは、こう言った。

 「ヤクザとフィリピンは、親和性が高いんだよな」

 だから、フィリピンは観光地としての信頼感や魅力に欠けるのである。女性に人気のない場所は、なかなか観光地にはなれない。

 汚職はシステムだという話は、次回に詳しく述べる。

 

 

 

1861話 借金

 

 中学時代の顔見知りから借金を申し込まれたという話を書いていて、借金に関する思い出が2件浮かんだ。

 銀座の中国料理店でコック見習いをしていた時の話だ。レストランという場所は、厨房とホールに分かれていて、厨房の長は料理長で、ホールの長は主任だった。私が働いていた店の場合、経営者は不動産業を手広くやっている人物で、店にはあまり顔を出さなかったようだ。「ようだ」というのは、厨房に顔を出すホールの人はほとんどいないからだ。宴会の打ち合わせなど主任がやり、ほかの人とは料理を受け取りにカウンターに表れる以外出会うことがないから、社長が店にいるかどうか厨房の人間はわからない。

 ホールの人をウエイター&ウエイトレスと呼ぶのは古いのか、今はホールスタッフと呼ぶのだろう。そのスタッフのなかで、正社員は主任と男女のふたりで、あとはランチタイムだけのパートのおばちゃんたちと夜だけのアルバイトが数人いた。夜のバイトは役者数人が交代でやっていた。役者と言っても、名前も知らない。数人の役者のなかで、もっともよく姿を見せていた男は、日活アクション映画の悪役のような顔をした男で、コックをやめてからのことだが、ウチで昼飯を食べながらテレビを見ていたら、再現ドラマで愛人に刺殺される役をやっていて、さもありなんと思った。

 主任は50ちょっと前の女性で、その助手として活躍していたのが20代なかばの女性だった。「10代のころは暴走族の男とつるんでいたが、今は生活を改めて働いています」というのが私の勝手な想像で、実際の経歴は何も知らない。快活で、頭の回転が速く、店では重要な働き手だった。そのころはまだデビューしていないが、イメージとしては鈴木紗理奈だ。

 その女性が突然姿を消した。

 厨房であわただしく働いている見習いコックには関係のない話で、すぐには気がつかなかったが、しばらくして先輩から、そのいきさつを聞いた。

 そもそもは、カードローンの借金がかなりあったらしい。その借金を少しでも返済しなければいけない状況に追い込まれ、苦し紛れに主任の印鑑を使って、勝手に借金をした。「紗理奈」は主任の片腕として信頼されていて、レジも一部任されていた。レジに、店と主任の印鑑があるのも知っている。ちょっとカネを借りるだけで、すぐに返せば問題はないと考えたのだろうが、他人名義の借金も返せなくなり、逃げたということらしい。その後、どう解決したのかは知らない。

 コックをやめて、ライターになった。ときどき顔を出す小さな出版社で、雑用全般を担当するアルバイトがいた。20代なかばの女性だ。

 ある日、その出版社に顔を出すと、そのアルバイトの姿がなかったが、だからといって気にもしていなかった。銀行や郵便局に行くことは日常業務だし、休むこともあるだろう。しかし、「いやあ、ひどい目にあってね」と編集者が話し出したので、その事情がわかった。アルバイトは借金を抱えていたようだ。それがカードローンなのかどうか覚えていない。時代的には、まだ「サラ金地獄」という言葉は広まっていないが、もしかすると「借りてはいけない業者」からの借金だったのかもしれない。

 会社に、電話がかかってくる。本人は不在だと答えると。「金返せ!と伝えろ」という伝言を伝えられる。それが毎日で、編集業務に支障をきたしたが、もうその頃には、アルバイトはとっくに姿を消し、行方不明になっていた、というわけだ。