63話 1984年 その2

 アジア文庫が開店した1984年当時、日本人の海外旅行はどうだったのか。
 対ドル為替レートでいえば、84年はだいたい240円台後半で推移していたのだが、85年のプラザ合意により円高が承認され、85年の末には200円、 88年には120円台まで高くなっている。対ドル為替レートの変遷を見ると、アジア文庫の開店は円高バブル経済、海外旅行ブームを見越して創業したかに 見える。店主には失礼だが、もちろんそれは偶然のことであって、店主に世界と日本の経済を適格に予測する眼力があれば、いまごろ巨万の富を手にしている し、そもそも儲からないアジア文庫をやろうなどとは考えないはずだ。だから、84年のアジア文庫開店は、時代が味方したといえるだろう。
 1984年の日本人出国者数は、466万人だった。そのなかで、アジア地域の目的地別旅行者数を見てみると、多い順に次のようになる。インドネシアの数字は最近のものしか入手できないので、わからなかった。(  )内は2002年の数字。

 台湾     63万人 ( 99万人)
 韓国     58万人 (232万人)
 香港     58万人 (140万人)
 中国     38万人 (299万人)
 シンガポール 38万人 ( 72万人)
 タイ     22万人 (124万人)
 フィリピン  16万人 ( 34万人)
 マレーシア  11万人 ( 40万人)
 インドネシア      ( 61万人)

 1984年当時、海外旅行はすでに大衆化しているが、まだツアーで行くのが普通という時 代だった。そして、若者が東アジア、東南アジアに出かける時代ではまだなかった。この時代にアジアを旅していた若者は、インド方面へ出かける者たちか、社 会問題に興味を持っている者か、あるいは旅が趣味という道楽者、そして研究者の卵たちで、そういう人たちがアジア文庫の客の、ある層を成していたと思われ る。彼らが頼ったガイドブックは、英語のものか、83年から刊行が始まった「宝島スーパーガイド アジア」である。ツアーでアジアに出かける者は、普通の 観光旅行のほか、いまも変わらぬ売春旅行か、香港やシンガポールでの買い物旅行、そしてやっと観光旅行ができるようになった中国への旅だった。国際観光振 興会の日本人旅行者統計に、中国への旅行者数が明記されるのは83年からだ。
 80年代後半の激辛ブームとエスニック料理ブームによって、テレビ番組にタイが登場することが多くなり、タイでロケしたテレビコマーシャルが放送された り、プーケットやサムイ島でのんびり過ごす日本人が増えてきた。こうした動きから、90年代初めごろには、タイが東南アジアで日本人にもっとも人気がある 国になったのだろうと思っていたが、統計では違う。タイに行く日本人旅行者数が、東南アジアで日本人旅行者がもっとも多いシンガポールを抜くのは、 1998年以降のことだ。理由がよくわからないのだが、98年にシンガポールに行く日本人旅行者数が突然前年比22%減になり、タイと入れ替わり、現在ま でその順位は変わらない。
 目的地別日本人訪問者数の統計を眺めていると、とんでもない数字があることに気がつくことがある。例えば、1990年にマレーシアを訪れた日本人の数が 前年比150%増なのだ。これはどうしたことがと調べてみたら、90年はマレーシア観光年ということで、キャンペーン活動の成果が現れたことを示してい る。しかし、だからといって出版界にマレーシアブームがあったわけではない。
 アジア文庫が開店したころ、棚にどんな本が並んでいたのかといった詳しい話は店長レポートとしていずれ書くだろうが、84年に出版されたアジア関係の本 や雑誌で、まだ書名をあげていないものを少し紹介しておこう。食文化や旅行のことをちょっと調べてみただけでも、日本人がアジアに注目し始める直前の萌芽 が見つけられる。
 『ソウルの練習問題』(関川夏央、情報センター出版局)
 『雲南の照葉樹のもとで』(佐々木高明編著、日本放送出版協会
 『シルクロード』上下(ヘディン、岩波文庫
 『ブータンの花』(中尾佐助西岡京治朝日新聞社
 『インドを歩く』(深井聰男、YOU出版局)
 『カルカッタ大真珠ホテル』(谷恒生講談社
 『インドでわしも考えた』(椎名誠小学館
 雑誌では民族音楽の「包(PAO)」(エフエム企画)や「AB・ROAD」(リクルート)などが創刊された。