205話 ある読者が、じつは訳者で、名訳を・・・


 アジア文庫のこのページや、小冊子「季刊 アジア文庫から」で「活字中毒患者のアジア旅行」というエッセイを連載しているが、読者のことはまるでわからない。読者はそれほど多くないことはわかるが、どういう人たちが読んでいるのか、もちろんわからない。
 先日、アジア文庫気付けで封書をいただいた。アジア文庫で書いているエッセイの読者だという。封書を手にして、差出人がどういう人かすぐわかった。まだ 一度も会ったことはないが、その名はよく知っている。ビルマ文学の土橋泰子さんじゃないか。次のような翻訳がある。ほかにもあるだろうが、私が読んだこと があるのは、この4冊だ。
 『世界短編名作選 東南アジア編』(新日本出版社、1981年)
 『母・道なき道を手探りで』(モゥ・モゥ他、井村文化事業社、1982年)
 『12のルビー』(マウン・ターヤ他、段々社、1989年)
 『ビルマの民衆文化』(ルードゥ・ドー・アマー他、新宿書房、1994年)
 土橋さんからの手紙は、私が「季刊 アジア文庫から」に書いた、タイのピブーンソンクラームの最晩年のころのエピソードに関するものだった。
 そのあと、何度かメールのやりとりがあって、「やっと、翻訳を終えまして・・」という言葉とともに、1冊の本が送られてきた。『ビルマ商人の日本訪問記』(ウ・フラ、土橋泰子訳。連合出版、2007年)はその書名どおり、1936年のビルマ人の日本旅行記だ。
 西洋人の日本旅行記や滞在記は、あまた翻訳出版されている。アジア人では中国人の手によるものがいくつか出版されている程度で、東南アジア人のものは少ない。
 この日本訪問記は、偽インド人の偽滞在記とは違って、1939年にラングーンで実際に出版され、書影もついている。ビルマ人商人ウ・ラフは1900年生まれ。貿易に従事し、1936年に業務視察のため日本を訪問した。
 読みかけの本を脇に置いて、さっそく読んだ。おもしろい。じつに興味深い。
 ウ・ラフがたえず気にかけているのは、植民地下のビルマの将来だ。外国人はなぜビルマで豊かになっていくのか。ビルマ人は、なぜいつまでたっても貧しい のか。そういう疑問を解く鍵が日本にあるのではないかと考えた。商人が日本に行った理由は、日本製品の買い付けや商売事情調査ということもあるが、日本と 日本人に強い興味を持っている。
 私好みの細かい事柄を書き出していくときりがないし、ビルマとは関係ないが、興味深い記述がいくらでもある。例えば、神戸でのこと、著者はミルクティー を飲み、通訳はアイスコーヒーを飲んだという記述があって、1936年にアイスコーヒーがあったのかと調べてみると、大正末から昭和の初めにはすでにあっ たことがわかった。ビルマのことを調べようとしていて、日本の過去のことも調べてしまった。私の読書はこういう具合調べつつ読むから、なかなか進まない。
 ビルマ関連でいえば、この当時すでにビルマでは、スプーンとフォークを使って食事をしている人がいたこともわかった。諸物価は、物によっては、ビルマの ほうが高いものもあって、土地は日本が高いが、鉄道などの交通費は日本のほうが安いという。また、すでに、ビルマのロンジー(腰布)は日本でプリントして いることもわかった。
 意外に思った記述は、「日本人は時間を守らない」というものだ。9時に会う約束なのに、10時になって来ることもあるという。現在の日本だって、時間を 守らない人はいくらでもいるから、そういう人に出会ってしまったのか、それともビルマ人との約束だから、いい加減でいいさという差別意識の現われだったの かどうかわからない。
 この本を読んでいてびっくりするのは、翻訳者の手間のかけ方だ。著者がある本に触れると、その原本に当たって、確認している。この熱心さがいい。できるかぎり本の読者に情報を提供したいという、翻訳者の情熱が伝わってくる本に仕上がっている。
 この本の原著は、外国を見てきた商人が次世代のビルマ人に「外国を見よ。視野が広なれば、国の水準が上がる」という思いで書き上げたのだが、日本の翻訳者もまた、同じように、日本人の視野を広げようという思いで、翻訳を進めたのだろうと思う。労作に感謝である。