62話 1984年 その1


 1984年といえば、外国文学のファンならば、ジョージ・オーウェルの『1984』を思 い浮かべるだろうが、アジアに関心がある人なら、アジア文庫が開店した画期的な年であると記憶していてほしい。紆余曲折、切磋琢磨、孤軍奮闘、独立独歩、 千客万来を望めど一輪車操業の零細書店の日々ではあったが、とにかく創業20年目を迎えることができた。そこで、今回と次回の2回にわたって「開店20周 年を迎えられて、ホントによかったね 1984年特集」を企画してみた。
 1984年とはどんな年だったのか、歴史を振り返ってみよう。アジア文庫の利用者には、残念ながら大学生くらいの若者はほとんどいないから、84年の記 憶がないという人はほとんどいないはずだが、具体的にどういう年だったのかというと私も含めてあまり覚えていないだろう。
 日本人の平均寿命が世界一になり、小学校教員の初任給が11万3000円で、国民の9割が中流階級だと認識し、ワープロが一気に値下げされ、筆記具として普及し始めた。国籍法が改正されて父母のどちらかが日本人なら子供にも日本国籍が与えられることになった。
 レーガン大統領は、一般教書演説で「強いアメリカ」を強調し、中曽根・自民党は防衛費のGNP比1%枠の見直し作業に着手し、スパイ防止法案を作成し、靖国神社公式参拝は合憲との党見解を決定している。
 国際社会では、2月にユーゴスラビアサラエボ冬季オリンピックが開催され、7月にはロサンゼルスでオリンピックが開催された。アフリカでは飢餓が問 題になり、インドのガンディー首相が暗殺された。韓国からやって来たのは、現職の大統領としては初来日となる全斗煥大統領と、趙容弼(チョー・ヨンピ ル)。ちなみに、放送局はこの年から、韓国人の名を現地語音で読むことになったので、金大中は「きん・だいちゅう」から「キム・デジュン」となった年であ る。
 テレビに目を転じれば、大河ドラマは評判の悪かった「山河燃ゆ」(日系二世のドラマ)、教育テレビでは番組名に苦労した「アンニョンハシムニカ ハング ル講座」が始まり、その結果、韓国語をハングルと呼ぶのだと誤解する日本人がかなり現れている。「北の国から」の海外版として企画したのだろうと思われる のが「オレゴンから愛」、中村敦夫の海外報道番組「地球発22時」の放送が開始された。フィリピンを舞台にした深田祐介の小説『炎熱商人』がドラマ化さ れ、やはりフィリピンを舞台にした佐木隆三の小説『海燕ジョーの奇跡』が映画化された。
 のちに「ロス疑惑」と呼ばれる事件が初めて報道された年であり、グリコ・森永事件がおきた年である。トルコ人の抗議により、トルコ風呂が「ソープラン ド」と改称されたのもこの年。音楽では、チェッカーズ中森明菜、安全地帯の時代であるが、本はあまり売れなかった。話題になった本は、『構造と力』(浅 田彰)、『見栄講座』(ホイチョイ・プロダクション)など。
 日劇跡にマリオンができ、福沢諭吉の1万円札など5000円、1000円が新札になり、植村直己がアラスカのマッキンリーで消息を断ち、禁煙パイポが発売された。
 アジア関連ではどういう年だったのか。
 都内にタイ料理店は多分5軒くらいしかなく、インドネシア料理店も数軒しかなかった。まだ「エスニック料理」という言葉はほとんど知られていないが、 『東京エスニック料理読本』(冬樹社)が発売されている。『食は東南アジアにあり』(星野龍夫、森枝卓士、弘文堂)もこの年の発売。激辛ブームは翌年だか ら、日本人の目と舌が中国料理以外のアジア料理に向けられ始めた黎明期の時代だということがわかる。