71話 また、同じことを


 ちょっとした会合から帰宅して、コーヒーを飲んでいて「はっ」と声をあげそうになった。 もしテレビカメラが私の顔をとらえていたら、赤面しているなさけない表情を写しとったにちがいない。その会が終わって、別室で参加者とちょっと建築の話を したのだが、その30分ほど前に、同じ人物に「最近の建築は……」とまったく同じ話題で話かけたことを思い出したからだ。ナサケナイ。
 あたかも初めて話すかのように、同じことを何度も話すのは老化のしるしらしい。まだ老眼鏡など必要ないなどと、安心している場合じゃない。
 本を読んでいると、「その話はすでに別の本に書いたので省略するが、……」という文章がよくあるが、その「別の本」をまだ読んでいない私は、省略された 話が知りたくなる。しかし、ある作家の本をよく読んでいる場合、省略されずに繰り返されていたら「またその話かよ」とうんざりする。とくに、さまざまな雑 誌に書いたエッセイを単行本にまとめた場合、編集がへただと同じ話に何度もつきあわされることがある。こういう場合はうまく編集して欲しいが、「別の本 に」という場合はむずかしい。読者は勝手だから、いろんな文句をいいたくなるものだ。
 私の場合は、できるだけ同じ話は書かないようにしている。だから、旅の話はすぐネタ切れになってしまうのだ。「同じ話」というのは、自分が書いた話と同 じという意味だけではなく、他人が書いた話と同じというのもいやなのだ。多くの人がすでに書いている「韓国キムチ紀行」とか「タイ料理はうまいぞ」などと いった文章は書きたくない。できることなら、まだ誰も書いていない分野をテーマにしたいという欲望がある。まったく誰も触れていないテーマというのはない にしろ、一冊まるごとそのテーマで書いたのは、私の本が世界最初だというような本を書きたいと思う。
 誰の本だったか忘れたが、出版をテーマにした本で、「誰も書いていないテーマの本は出すな」という法則があるそうだ。そのココロは、誰も書かないという ことは、誰も読みたくないからだということらしい。たしかに、私の本は売れないのだから、その説は正しいのかもしれないが、二番煎じ、三番煎じの本を書く のはいやなのだ。
 同じ話は書かないようにしているが、意識的に書くことはある。かつて書いた文章に手を加えたかった場合と、単行本全体の構成を考えたときだ。ナイロビの バラックめし屋の話を最初に書いたのは、『東アフリカ』(グループ・オデッセイ出版局、1983年)だった。元の短い文章に大幅に手を加え、『路上のアジ アにセンチメンタルな食欲』(筑摩書房、1988年)におさめた。その本が講談社文庫に入り『アジアの路上で溜息ひとつ』(1994年)となるとき、また 手を加えた。旅行人から『アフリカの満月』(2000年)を出すときに、ナイロビの食文化の話をぜひ加えたくて、また手を入れて載せた。そのどれかの本を 読んだ人物が、世界の食べ物の本にケニアのめし屋の話を入れたいというので、再録された。『美味探求の本 世界編』(有楽出版社発行、実業之日本社発売、 2001年)だ。「同じ話は書きたくない」などといいながら、まあなんともすごい使いまわしだが、意識的にやったのは一度だけで、あとは偶然である。
 あるとき、ふと考えた。同じ話を書かないというのは、たんに自己満足でしかないのだろうかと。私の本が仮にAからJまで10冊あったとして、Bに書いた 話をGの本にまた書いたとして、そのことに気づく読者はどれだけいるだろうか。ただでさえ売れない私の本を、BもGも読んでいるという人は天然記念物なみ に少なく、しかも内容をしっかり覚えている読者となると、もっと少なくなる(書いた本人だって、どの本にどんなことを書いたかよく覚えていないのだ)。だ から、「この話はすでに書いたから、ここではやめておこう」などという自主規制は、ガンガン売れている書き手のいうことで、私のように売れないライターが 自主規制するのは、うぬぼれ、思い上がりではないかという気もする。だからといって、大幅増量、一冊分のネタで三冊書くという器用なまねはしないし、でき ないのだが。
 だから、このコラムに限らず私の文章に、「この話、以前に読んだよ」という発見がもしあったら、それは老化が原因だと思って許していただきたい。このコ ラムのように、随時書いているものはそういうミスをやりかねない。編集長のアジア文庫店主だって、老化が始まっているのだから、同じ文章があっても見逃す こともありうる。