1005話 わたし流旅行記の書き方


 多くの旅行記は時系列で書いていく。旅行者の移動に連動して話が進む。旅日記風だ。旅行者がある街に滞在するようになると、旅日記風に書くことが難しくなる。日によって行動内容が大きく変わると、1日1話では書けなくなる。
 私の場合、時系列、つまり時の流れのままに文章が続いていくという構成は、だらだらと長くなりそうなので好きではない。かつて、『タイ・ベトナム枝葉末節旅行』(めこん、1996年)という旅日記風の本を書いているが、初めから旅日記を書きたかったわけではない。書いておきたい事柄が山ほどあり、それを箇条書きにするのでは能がないので、旅日記を装えば読みやすくなるだろうと考えて、テーマごとのコラム集を日記風にしただけだ。1日分の記述は、その1日に起こったことではなく、過去の経験や集めた資料の紹介などを混ぜ合わせている。だから、「十二月×日・・・」というような表記にした。創作はないが、ある日の出来事を、3回か4回分にばらして、書き分けるということはしている。今春の大阪旅行の物語も、そういう構成になっている。
 あの本も売れなかったから、読者受けはしなかったのだろう。何も考えない旅行記の方が売れたのかもしれないが、そういう文章を書く才能は、私にはない。ひとり旅のせいもあるが、旅をしながら数多くのテーマを考えている。疑問を抱くような事柄に出会うと、旅をしている間中ずっと考えている。映画を見れば、その映画についてもっと知りたくなる。新聞におもしろい記事が出ていれば、紹介をしておきたくなる。しかし、旅をしながら、知りたいことが次々に出てくる人は多くないようで、私のような旅行記を書く人は少ないし、読みたがる人もいない。
 はっきり言えば、旅の話をテーマ別に書き分けるのはプロの力量が必要だと思う。日々の旅を、「今日は看板の話。明日はこの国の靴の話・・・」と毎回別の話を書いていくには下調べが必要で、「行った、食べた、買った」という写真中心の旅行記を書いている人にはできない。しかし、多くの読者を獲得するのはその手の旅行記で、出版物もイラストと写真を多用したガイド風旅行記だ。役に立ちそうな情報がないと、価値がない。だから「るるぶ」が売れるのだろう。ひがんで言っているのではなく、売れる文章を書く才能が私にはないということだ。
 テーマを持って旅している人のなかで、私の関心分野と重なるのが、鉄道研究者たちの文章だ。「乗った、撮った」というだけでも、「よくもまあ、あんな辺鄙なところに行ったよなあ」という場所に行った乗車記録だとそれだけでも多少おもしろくなるが、その国の鉄道史を踏まえて書いてあるとより興味をそそる。行きがかり上、私も鉄道史を調べたことがあるが、外交史や経済史や政治史、そして移民史も重なって興味深い事実が次々に出てくる。タイの鉄道だと、イギリスと深い関係になり、多くの西洋人技術者が登場し、囚人たちも労働に駆り出され、鉄道が完成すると、その借金返済のために政府は国民に鉄道の利用を積極的に推進した結果、意識的に道路建設をおろそかにしたという歴史がある。蒸気機関車の燃料について考えてみても、興味深い。タイでは石炭がなく、材木が少ないから、ディーゼル化が早かったといったことも知った。
 昔のロサンゼルスの写真を見ていたら、路面電車が走っている1枚があって、そういう時代があったことを知った。そこで、路面電車の時代を調べてみると、電車とバスに関するスキャンダルがあったことを知った。どういう事柄でも、調べるとおもしろい事実がいろいろ出てくる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%B7%AF%E9%9D%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB
 鉄道のほか、建築研究者もいくつかの紀行文を書いている。そのほかは・・・というと、映画は四方田犬彦が何篇かのエッセイを書いているが、不特定多数の国の映画と旅行記という本をきっとあるだろうが、私は知らない。世界の自動車紀行もない。食べ物が出てくる旅行記はいくらでもあるが、食文化に言及したものは翻訳書に多い。日本人は、食べればそれで終わりか、あるいは日本で「もどき」の料理を再現することに熱意を注ぐが、食文化をほとんど考えない。染や織や、蔵前さんが書いているように絵画紀行はあるが、そう多くはない。
 旅行者の数に比べて、ユニークな紀行文は少ない。誰か、私を楽しませてくれ。