何度も読んだ本といえば、タイの小説である『東北タイの子』や『田舎の教師』などの名がすぐに浮かぶが、「何度も」といったところで、せいぜい3回か4回程度にすぎない。何度も手に取るという意味では、当然、辞書・事典類の使用頻度にかなうわけはない。
かつて、もっともよく手にしていた本は、講談社学術文庫の『新版国語辞典』と『英和辞典』だった。私の漢字力には大きな欠陥があって、読む力は日本人の 平均をやや越えているかもしれないが、書く力となると小学生レベルなのである。「ワープロを使うようになると、どうしてもそうなりますね」などと同情して くれる人もいるが、それは好意的誤解であって、じつは小学生時代から漢字があまり書けなかったのだ。そんな人間がライターになってしまったのだが、誤字脱 字ひらがな満載の原稿を書くわけにもいかず、辞書が手放せなくなった。
事情は英語も同じことで、会話力は日本人の平均は越えていると思うし、必要があれば英語の本や新聞も読む。しかし、書く力となると、まことにもってお恥ずかしい限りで、簡単な単語でも綴りがよくわからない。
私の頭脳はそういう構造になっているので、辞書は手放せない。ながらく文庫版の辞書を使ってきたが、漢字を調べるには視力上の問題が出てきて、やや大き い『明解国語辞典』(三省堂)を買ったが、利便性を考えて電子辞書を買った。これなら英語辞典にも漢和辞典にもなるし、画数の多い漢字は拡大して表示して くれるのがありがたい。
その後ワープロを導入したので、辞書を使う頻度は格段に少なくなったが、言葉の使い方に迷うことが多いので、電子辞書は日夜活躍している。
紙の辞書・事典類では、『タイの事典』(同朋舎出版)や『東南アジアを知る事典』(平凡社)などが首位争いをするだろうと予想したが、よく考えて見る と、そうした事典よりもはるかによく使う事典があることに気がついた。『値段の風俗史』上下(朝日文庫、1987年)である。
明治・大正・昭和のさまざまな値段の変遷史を年表とエッセイで構成した名著なのだが、1980年代初めごろまでの情報しかなく、現在は実質上絶版であ る。その代わりに発売されたのが、『戦後値段史年表』(朝日文庫、1995年)である。拙著『異国憧憬 戦後海外旅行外史』(JTB)を書いたときはもち ろん、ふだん本を読んでいるときでも、「帝国ホテルとバンコクのオリエンタルホテルの宿泊料金を比較してみたらどうなるんだろう」とか「1950年代の映 画館入場料と収入の比較」などという疑問を持ったら、さっそく調べてみたくなる。そういうときに、まことに役立つ資料なのである。
ある時代のある物が、平均的な収入を得ている人たちにとって安い物だったのかそれとも高い物だったのかという疑問は、物価と収入の両方の資料がないと判 断できない。収入の資料がなくても、例えばラーメンやざるそばなどの当時の値段がわかると、だいたいの想像がつく。だからこそ、タイ版やインドネシア版な ど、とりあえず東南アジア版の『値段の風俗史』か『値段史年表』がぜひ欲しいのだが、その作成をタイ人に期待しても、おそらく完成しないだろう。学者な ら、ある物の値段を比較して論文を書くということはあるだろうが、多種多用な物の値段をたんねんに調べるという作業は期待できない。
ぜひ欲しいが存在しないのは『値段史年表』だけではなく、じつは詳細な年表そのものがないのである。政治や王室や経済の大きな流れは多少わかっても、生 活に近い部分のことはまるでわからないのだ。テレビのカラー化はいつからだとか、あのショッピングセンターができたのはいつかとか、コーラが輸入されたの はいつかといったこまごまとしたことがわからない。個別に調べればある程度わかることもあるが、資料によって年代がバラバラなのだ。年表ができない理由が そこにある。私好みの年表ができない理由はもうひとつある。そういう年表をありがたがる人が、一部の研究者と物好き以外ほとんどいないことだ。
73話 座右の書
何度も読んだ本といえば、タイの小説である『東北タイの子』や『田舎の教師』などの名がすぐに浮かぶが、「何度も」といったところで、せいぜい3回か4回程度にすぎない。何度も手に取るという意味では、当然、辞書・事典類の使用頻度にかなうわけはない。
かつて、もっともよく手にしていた本は、講談社学術文庫の『新版国語辞典』と『英和辞典』だった。私の漢字力には大きな欠陥があって、読む力は日本人の 平均をやや越えているかもしれないが、書く力となると小学生レベルなのである。「ワープロを使うようになると、どうしてもそうなりますね」などと同情して くれる人もいるが、それは好意的誤解であって、じつは小学生時代から漢字があまり書けなかったのだ。そんな人間がライターになってしまったのだが、誤字脱 字ひらがな満載の原稿を書くわけにもいかず、辞書が手放せなくなった。
事情は英語も同じことで、会話力は日本人の平均は越えていると思うし、必要があれば英語の本や新聞も読む。しかし、書く力となると、まことにもってお恥ずかしい限りで、簡単な単語でも綴りがよくわからない。
私の頭脳はそういう構造になっているので、辞書は手放せない。ながらく文庫版の辞書を使ってきたが、漢字を調べるには視力上の問題が出てきて、やや大き い『明解国語辞典』(三省堂)を買ったが、利便性を考えて電子辞書を買った。これなら英語辞典にも漢和辞典にもなるし、画数の多い漢字は拡大して表示して くれるのがありがたい。
その後ワープロを導入したので、辞書を使う頻度は格段に少なくなったが、言葉の使い方に迷うことが多いので、電子辞書は日夜活躍している。
紙の辞書・事典類では、『タイの事典』(同朋舎出版)や『東南アジアを知る事典』(平凡社)などが首位争いをするだろうと予想したが、よく考えて見る と、そうした事典よりもはるかによく使う事典があることに気がついた。『値段の風俗史』上下(朝日文庫、1987年)である。
明治・大正・昭和のさまざまな値段の変遷史を年表とエッセイで構成した名著なのだが、1980年代初めごろまでの情報しかなく、現在は実質上絶版であ る。その代わりに発売されたのが、『戦後値段史年表』(朝日文庫、1995年)である。拙著『異国憧憬 戦後海外旅行外史』(JTB)を書いたときはもち ろん、ふだん本を読んでいるときでも、「帝国ホテルとバンコクのオリエンタルホテルの宿泊料金を比較してみたらどうなるんだろう」とか「1950年代の映 画館入場料と収入の比較」などという疑問を持ったら、さっそく調べてみたくなる。そういうときに、まことに役立つ資料なのである。
ある時代のある物が、平均的な収入を得ている人たちにとって安い物だったのかそれとも高い物だったのかという疑問は、物価と収入の両方の資料がないと判 断できない。収入の資料がなくても、例えばラーメンやざるそばなどの当時の値段がわかると、だいたいの想像がつく。だからこそ、タイ版やインドネシア版な ど、とりあえず東南アジア版の『値段の風俗史』か『値段史年表』がぜひ欲しいのだが、その作成をタイ人に期待しても、おそらく完成しないだろう。学者な ら、ある物の値段を比較して論文を書くということはあるだろうが、多種多用な物の値段をたんねんに調べるという作業は期待できない。
ぜひ欲しいが存在しないのは『値段史年表』だけではなく、じつは詳細な年表そのものがないのである。政治や王室や経済の大きな流れは多少わかっても、生 活に近い部分のことはまるでわからないのだ。テレビのカラー化はいつからだとか、あのショッピングセンターができたのはいつかとか、コーラが輸入されたの はいつかといったこまごまとしたことがわからない。個別に調べればある程度わかることもあるが、資料によって年代がバラバラなのだ。年表ができない理由が そこにある。私好みの年表ができない理由はもうひとつある。そういう年表をありがたがる人が、一部の研究者と物好き以外ほとんどいないことだ。