78話 世界と出会ったとき

  1950年代 ラジオとともに



 雑誌のインタビューや知人との雑談で、「どうしてアジアに興味を持ったんですか」と聞かれることがたまにある。
「いやあ、たまたまですよ。とくに理由なんてありません」
 いつもそう答えるのは、そう答えるしかないと思うからだが、自分の行動の理由をあらためて考えてみるなんてのは面倒だという思いもある。冷静に考えて行 動してきたわけではなく、やりたいことをやってきただけだ。歴史的な大事件をきっかけに、アジアに興味を持ったというわけではまったくないのだが、戦後日 本人の海外旅行史を考えていたら、時代という環境が私に与えた影響も大きいのではないかと思うようになった。日本人と外国文化という一般論ではなく、私個 人の異文化接触の歴史である。
「父の仕事の関係で、少年時代はベルギーで過ごした」ということはなく、「父が貿易商だったために、我が家にはしょっちゅう外国人が訪れていた」というこ ともない。父は戦争で中国に行き、母は上海で育ったが、家に中国の香りはまったくなかった。母は、中国料理を作ったことはなかった。日曜日には教会に行き 賛美歌を歌うということもなく、身近に外国はまったくなかった。
 私は1952年に東京で生まれたのだが、50年代のほとんどは奈良県の山村で過ごした。父が土木の技術者だったせいで、ダムの建設工事のために山村に移 り住んだのである。子供時代というのは、出来事のあとさきがはっきりしないものだが、記憶の残るもっとも古い「外国」は、父が作ったラジオから流れてい た。
 そのひとつはアメリカ音楽である。ジャズやカントリー&ウエスタンであり、映画音楽であり、ロックンロールもあった。日本人歌手が日本語で歌う翻訳ポッ プスもあった。もちろん日本の歌も流れていた。あらゆるジャンルの音楽を熱心に聞くというわけではないから、特定の番組名は覚えていないが、たえず音楽を 体に感じていたという記憶はある。ラジオのダイヤルはNHKに合わせたままで、スイッチを入れたらさまざまな音楽が勝手に流れてきたというだけのことだ。 春日八郎とフォーシーズンズを同時に聞くような音楽生活は、当時はけっして珍しいことではなかった。ただ、それを覚えているということは、当時から音楽に は興味があったということだろう。
 もうひとつ、ラジオで感じた異文化は、外国の地名がよく登場した「尋ね人」のコーナーだった。戦前から戦後にかけて、消息がつかめない家族や友人知人に 呼びかける番組だった。そのなかでしばしば聞いたのは、満州を初めとする中国の地名や、戦地であった東南アジアの地名だったような気がする。「気がする」 というだけで、本当にそうだったのかはわからない。外国の地名に精通していたわけでは無論ないが、音の響きが日本の地名ではないものがあったという気がす る。
 1960年のローマ・オリンピックのときには、我が家にはすでにテレビがあったのだが、テレビでオリンピックを見た記憶はない。もとより生中継の時代で はなく、ニュースフィルムで見たはずなのだが、ローマ・オリンピックの記憶は雑誌「サングラフ」のなかにある。中山の水泳、小野の体操、アベベのマラソン は、写真で記憶している。サン出版社が発行していたこの月刊ニュース雑誌を、なぜ我が家で毎月購読していたのか、その理由はわからない。母にたずねても 「きっと、父さんが購読を勧誘されて、つきあいで半年か一年の購読を決めたんじゃないかしら」というだけだが、この雑誌で世界の出来事を写真で目にしたは ずだ。絵本も学習雑誌もマンガ雑誌もない家庭だから、サングラフは私が初めて読んだ雑誌なのかもしれない。「読んだ」といっても、幼稚園児でも手紙が書け る昨今の子供と違い、小学校に入って初めて文字を習う子供の読解力など大人用の雑誌に対しては無きに等しいもので、雑誌の「写真を眺めた」というのが正し い。
 あれは幼稚園か小学1年生のときだったか、記憶がはっきりとしないのだが、近所のK君の家の前を通りかかったら、結婚式のような儀式をやっているのが見 えた。その家にいる人の服装が見慣れぬもので、色遣いもなじみのないもので驚いた記憶がある。電球の赤い色のなかに別世界を見たような気がした。
 のちに、東京の御徒町駅近くの朝鮮・韓国人街の生地屋で、あのとき見たのと同じような生地を発見し、K君、つまり金田君の名前から考えて、彼が在日朝鮮・韓国人だったのだと気がついたのは、高校生になってからだ。
 幼稚園や小学校低学年のころの私は、近所の特定の友人とだけ遊んでいて、2年終了で転居したから、級友の名前も顔もほとんど覚えていない。それなのに、 親しくもなかった金田君の名と顔をはっきり覚えている。とくに変わった少年ではなく、泣き虫のおとなしい子供だった。クラスにちょっとかわいいなと思う女 の子がいて、その子の家に遊びに行った記憶もあるのだが、その子の名前も顔も覚えていないのに、金田君のことだけは不思議に覚えている。
 山村でダム工事が始まり、私の一家のように外部から山村に移り住んだ工事関係者は多数いた。そのなかに、在日朝鮮・韓国人も少なくなかったと思われる。 村に「朝鮮漬け」という名のキムチが広まり、父が内臓の料理を覚えて家でみずから作ってくれたことも何度もあった。いわゆるホルモン焼きというものだが、 おそらく仕事仲間に教わったものだろう。