79話 世界と出会ったとき

 
 1960年代 東京オリンピック


 私にとっての1960年代は、小学2年生から高校2年生までだ。
 初めて地図帳を手にしたのは、多分、小学4年生だっただろうと思う。4年生の教室で地図帳を広げている自分の姿に記憶があるのだが、その地図帳が授業で 使ったものなのか、それとも姉が使っていたものをもらったお古なのか記憶にないが、地図を眺めているのが好きだったのははっきりと覚えている。世界地図を 眺めて、エベレストの次に高い山を探したり、ナイル川の流域を目で追ったり、友人が首都名を言い、私がその国を探すといった遊びをしているうちに、世界の 国の名前とだいたいの位置はわかるようになった。
 できれば、自分と同じ建設機械の技術者に、それがダメなら建設会社の事務系サラリーマンになって欲しいと願う父の期待を見事裏切り、機械は嫌い、算数も 理科も嫌い、社会科が好きという少年になっていた私にとって、地図を眺めているのが楽しかった。野球にも、プラモデルにも、ベーゴマにも関心を示さない少 年は、本と地図を友だちにしていた。
 暗記が嫌いな私は、地図を眺めて、世界の国名と首都をすべて暗記しようなどといった努力はしなかったし、地図の歴史や種類などといったことにも関心がなかったから、地図少年にも地理少年にもならなかったが、地図を眺めるのは今も好きだ。
 小学校高学年に読んでいた本は、現在と同様にさまざまな分野にわたっているが、筋を探せば、古代文明とか世界の七不思議を追うといったテーマの本で、す でに外国に興味があった。中学に入ると、読書傾向が大きく変わる。外国のことを扱った本という点では同じだが、時代が現代になった。その理由は、色気づい たからだ。死に絶えた世界のことより、人が今生きている現在の世界のほうがおもしろそうだった。
 この文章を書いていて初めて気がついたのだが、古代文明よりも現代文明のほうがおもしろそうだと気がついた直接のきっかけは、たぶんオリンピックだろうと思う。1964年の東京オリンピックである。
 アジア最初のオリンピック、日本を世界に宣伝する絶好の機会であるオリンピックに、日本のマスコミは浮かれていた。外国とはなんの関係もなく過ごしてき た普通の日本人の前に、日本人になじみのない国の人が姿を見せ、映画俳優でもない外国人が脚光を浴びる光景を見た。あのときほど外国人がテレビに姿を見せ たのは、それ以前にはなかったことだ。
 オリンピックは、いまはスポーツの競技大会だが、東京オリンピックの時代の日本人にとって、あれはサーカスであり、バラエティーショーであり、はっきり 言えば人種博覧会でもあった。かつてのヨーロッパでは、植民地から連れてきた「珍しいアフリカ人やアジア人」を見せ物にしたのだが、東京オリンピック時代 の日本人にも同じような影響があったように思う。まったく知らない国から来た人たちの、まったく知らない競技を見る日本人には、選手の奇異な風貌と珍奇な 名前が印象に残った。奇異な風貌というのは、顔つきといったことだけでなく、その筋肉であり毛むくじゃらの体でもあった。だから、アベベのような大会前か ら有名だった選手だけでなく、陸上100メートルのボブ・ヘイズの名は、その筋肉質の体とともに覚えている。重量挙げのジャボチンスキーや、砲丸投げのタ マラ・プレスもその巨大な体とパワーと、日本人にとっての珍名で記憶に残った。タマラ・プレスの場合は、市川崑の記録映画「東京オリンピック」で、砲丸を 耳の下に構えたとき、ロシアの深い森が脇の下に見えたという光景が日本の少年の目に焼きついている。
 スポーツファンではない私にとって、東京オリンピックというのは、世界にはさまざまな国があり、さまざまな姿をした人が住み、さまざまな名前を持ってい るという事実を教えてくれた行事だった。開会式のときの、民族衣装をまとったアフリカの代表の姿に胸がときめき、「独立したばかりの……」とアナウンスす る声に、独立というものを知らない国の少年である私は、アフリカの国々にどんな歴史があるのだろうかと思った。これは、地理の少年が、オリンピックを見た ことによって、世界の文化や政治、社会や歴史に関心がある少年へと変貌していったということである。私にとっての「世界」が、地図帳から出て、現実の社会 へと関心が広がったということだ。現在から振り返って考えれば、こういう偉そうなことになって恥ずかしいのだが、まあ、事実としてそういうことなのだろう と思う。地図に描かれている世界を、実際に見てみたくなったのである。