81話 世界と出会ったとき

 1970年 インドへ行く?


 高校の1年上の生徒が、アメリカに1年留学 した。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)という制度の留学だった。彼は帰国して、私と同学年になった。外国のことに興味がありながら、その生徒 とほとんど話をしなかったのは、私とクラスが違ったからというだけでなく、「なんだ、アメリカかあ。おもしろくなさそうだな」という感情が1割、英語で授 業を受け、英語で生活をしてきたという事実に対する気後れが9割あった。
 私が通っていた高校には、英語と数学の2科目に限って、「できるクラス」と「できないクラス」があった。実際にどう呼んでいたかは覚えていないが、事実 としてそういうクラス分けをしていた。私は英語も数学も「できないクラス」のなかの、「とりわけできないグループ」に属していた。将来の旅行にそなえて、 英会話の本は読んでいたし、歌詞の翻訳などを楽しんでやっていたが、受験にしか役立たない英語の勉強などする気はまったくなかった。だから、ひどい成績 だったのである。
 高校3年の、たぶん夏休み前のことだったと思う。ある日の放課後、担任に呼び出された。呼び出しを受けるほどの、悪事をした心当たりはない。教員室に行くと、教師が待っていた。
「あのう、なんでしょうか」
「うん、あのなあ、おまえ、インドに行く気はあるか?」
「はあ?」
「インドだよ。こんなものが学校に届いててな……」
 教師は机の引き出しから書類を取り出した。
「インドへの留学生募集の書類だ。もし、おまえがインドの大学で勉強したいというなら、応募書類を作ってやるけど、どうする?」
「はあ……」
「どうする。試験を受けてみるか」
「いえ、あの……」
 日本語で授業を受けているいまでも、成績がわるい生徒だ。自慢じゃないが、我が英語力は、「できないクラス」の「とりわけできないグループ」の一員であ る。インドでの英語の授業に歯が立たないという以前に、留学生試験のレベルにも遠く及ばないのは明らかだ。弱小野球部のタマ拾いに、「プロ野球のテストを 受けてみるか」とたずねているようなものだ。受験の準備をするだけ無駄というものだ。
「いえ、あの、試験を受ける気はありません」
「そうか。わかった。じゃあ、これで」
 教師は私が外国に行きたいという夢を抱いているのは知らないはずで、なぜインド留学の話を私に持ってきたのか、その理由はわからない。たぶん、変わったヤツだから、変わった国に行ってみたいと思っているのではないかと想像したのだろう。
 ありえない話だが、もし無試験で留学が可能だとしたら、あのとき、はたして行っただろうか。1970年の高校生にとって、外国ははるか遠く、しかも旅行 ではなく留学となれば勉強しなければいけない。外国語での授業だ。だから、例え無試験でしかも奨学金つきであっても、留学しなかっただろうと思う。冷静に 考えればそうなのだが、心に一抹の寂しさもある。「この意気地無し。留学生試験まで懸命に努力して勉強し、それでダメならダメでしょうがないじゃないか。 試験を受けるだけでも、受けてみればよかったじゃないか」。そういう声が心の底で聞こえるが、「はい、私は意気地なしです。『懸命に』とか『努力』という 言葉にふさわしくない生き方をしているのですよ」と居直りたい気もある。人生は、青春ドラマのようには展開しないのだ。それに、インドの大学で勉強したい ことなど、なにもなかったし。
 インドという国を初めて意識したのはいつなのか、わからない。しかし、読書歴ということでいえば、あの出来事のあとインド関係の本を読んでいる。『イン ドで考えたこと』(堀田善衛岩波新書)と『インドで暮らす』(石田保昭、岩波新書)というお決まりの2冊以外に、『インド史』(山本達郎、山川出版社) という高い本も買って読んでいる。
 1970年の「留学事件」から3年後、私はインドへと旅立った。なぜインドに行ったのか。これがわからない。実際にインドへ行くまでの3年間に読んだイ ンド関係の本は、先に挙げた3冊きりで、「非常におもしろかった」という読後感はなかったと思う。だから、それらの本に誘われてインドに行ったとは思えな い。ラビ・シャンカルシタールはすでにラジオで聞いていたはずだ。ビートルズがインドに行ったのも知っている。しかし、インド音楽ビートルズに誘われ たとは思えない。長髪ではあったが、ヒッピーになりたいなどとは思わなかったし、その思想に共鳴することもなかった。共鳴どころか、ヒッピーとはどういう ものか勉強してみようという気もなかったから、ヒッピーについてなにも知らなかった。
 私をインドへと誘ったものがなにか、あえて考えてみると、「本場でカレーを食べてみたかった」という理由が、どうも真実に一番近いような気がする。もう ひとつ理由を無理やり挙げてみれば、中学3年生のときに「ソビエトに行きたい」と思った理由と同じように、「変わった国らしいから、おもしろそうだ」と 思ったのかもしれない。
 1973年に引き続き、翌74年にもインドに行っているのだが、それは東南アジア旅行のおまけのようなものだった。というわけで、私と東南アジアとの関わりの話は、いずれかの機会にということで、この話は終わる。