107話 哀愁の町


 映画について、簡単な情報を得るのに便利なgooで、タイトルに 「哀愁」がつく映画を検索した。リストには29作あった。29作中、製作年のわからない作品が2作ある。残りの27作のなかで、もっとも古い作品は、 1930年のアメリカ映画「南の哀愁」、その次は1940年の「哀愁」ということになるが、Yahooで検索すると、1931年の日本映画「美人と哀愁」 (小津安二郎)だとわかる。もっとも最近の映画では、1993年のイギリス映画「哀愁のメモワール」だ。
 このリストを眺めていて、「ああ、そうだった」と思い出したのが、1958年の日本映画「アンコールワット物語 美しき哀愁」(渡辺邦男監督)だ。戦時 中、アンコールワット守備隊にいた日本人将校(池辺良)とカンボジア王朝の王女の交流を描いた作品で、たしかアンコールワットでロケをしたはずだ。 1950年代から60年代あたりに、外国でロケした日本映画に興味があって調べたことがあり、そのときにこういう映画があったことを知った。残念ながらビ デオ化されていないので、私は見たことがない。
 「哀愁」という言葉は地名と結びつきやすいようで、哀愁プラス地名という映画タイトルの土地は、モンテカルロ、ローマ、パリ、ストックホルム、マンハッタンがある。パリは「哀愁のパリ」と「パリの哀愁」がある。
 とにかく「哀愁」さえつけておけば、それらしいタイトルになるという安易な発想だが、現在のようになんでも原タイトルのカタカナ表記という風潮とどちらがいいかといわれると困る。どちらも、日本語の貧困であることには違いがない。
 さて、今回のテーマは映画ではなく、哀愁だ。「哀愁」という言葉にぴったりと合う町、あるいは国はどこだろうという話だ。
 映像で「哀愁っぽい」雰囲気を演出したいなら、夕暮れ時のシルエットやシルエットになる前の夕焼けに照らされた風景を撮影すれば、たいていの町が哀愁っ ぽくなる。しかし、そういう演出をしなくても、いつでも、どこでも「哀愁」を感じさせる国がある。それは、もちろん、私が感じると言うだけの話で、普遍性 はない。
 日本では国だと認められていない国、台湾が私にとってもっとも「哀愁」を感じる場所である。テレビの食べ歩き番組を見ていても、なんだかいとおしくて、 哀しくなることがある。そういう感情が沸き起こる具体的な思い出が、台湾にあるわけではない。しかし、台湾映画を見ていると、列車、駅、食堂、どんな風景 も心が締め付けられるのだ。なぜなのか、私にもわからない。政治的な立場の弱さに対する同情か、「なんとなく、なつかしい」という風景なのか、自分でもわ からない。
 先日、ある食文化研究者と雑談をしていて、「もし、1年間外国で暮らすとしたら、食べものだけで言えば、どこの国がもっとも好みに合うか」というテーマ になって、偶然にもふたりそろって「台湾ですよ」ということになった。1年間食べ続けることを考えたら、そう、台湾の飯がいい。
 台湾が好きで、飯も最高だというのに、もう20年も台湾に行っていない。あまりに近いと、「つい、そのうち」となって、なかなか行くチャンスがない。現 在の台湾がかつての台湾ではないことはわかっているが、それでもきっと「哀愁」という言葉にふさわしい場所だと、勝手に思っている。
 台湾の港町で、飯を食っていたい。