119話 写真の力(2)

 テレビの絵



 テレビでドキュメントや紀行番組を見ていて、「もしこのテーマを活字媒体で発表するなら、何ページもつかなあ」と考えることがある。テレビでは1時間番組になっているが、その番組のために取材した材料で、どれだけの原稿が書けるだろうかという疑問である。
 小都市の大通りを車内から撮影し、カメラは市場に入り、魚や野菜を撮り、食堂に入って、その店の料理を見せ、厨房に入り、料理を作っているおばさんにインタビューする。
 これがテレビ番組の5分間のシーンだとする。もし、このシーンを文章で表現しようと思ったら、テレビ取材の材料では5行か10行で終わるだろう。それ以上の行数で、まとまった内容の文章にしようと思ったら、きちんとした取材をふたたびしないといけないはずだ。
 内戦の戦闘シーンでもいい。映像では10分のシーンでも、原稿にするとなると、撮影した時間の何倍もの時間をかけないと、内容のある文章にはならない。 それが映像と活字の違いなのだ。映像には、すでに内容があるのだ。例えば、鹿児島市内の路線バスから見える景色をそのまま撮影した映像は、それだけで内容 がある。30分くらいなら、私は飽きずに眺めているだろうと思う。農山村の風景だと、1時間走った映像を、同じ1時間で放送されては困るが、適度にカット して放送してくれれば、それもおもしろい。世界の町を、時速20キロくらいのバスの車窓から見える景色で紹介してくれたら、それはそれでおもしろい。
 これと同じことを活字でやれといわれても、むずかしい。バスに乗って、流れゆく車窓の景色を眺めているだけでは、読むに値する原稿は書けない。私は書けないし、私よりもはるかに文章力のある作家でも、取材なしに、質と量ともにまとまった文章は書けないと思う。
 テレビは「絵がないとどうにもならない」という媒体だが、逆にいえば、「絵さえあれば、それでいい」ともいえるわけで、その結果、より刺激的な「絵」を求めるようになる。
 戦争の映像を例にすれば、刺激的なシーンがあればテレビ局なり編集者は喜ぶだろう。そういう刺激的なシーンは、度胸(あるいは浅はかさ)で撮影できると すれば、評価されるのは「戦闘シーン」であって、「戦争」ではない。戦争の歴史的背景や政治や経済の問題などいっさい知らなくても、「殺人の現場写真」の 撮影はできる。だから、どんな危険な目にあったかという話はできても、戦争の話はできないということになる。誰か、ある特定のカメラマンを念頭において、 この文章を書いているわけではない。何人ものカメラマンが書いた本や講演の印象だ。なにか物足りないのである。
 探検部の行動報告を聞いたような印象なのだ。その行動がどれだけ危険でも、「だから、どうしたの? 語りたいことは、『大変でした』という、それだけなの?」という感想と同じなのだ。
 だからといって、映像など重要ではないといっているのではない。