146話 小さな穴が大きくなって(1)

 朝日新聞パリ特派員



 インターネット古書店で旅の本を探ることを、年に何回かしている。対象となる本の数は多 いから、毎回テーマを決めてチェックしている。たとえば、アフリカの本だとか、船旅の本だとかいった具合だ。先日やったのは、地域はどこでもいいが、古め の本を探すというのがテーマだった。
 何千冊もの本のなかから目が止まったのは、『ヨーロッパ手帳』という本だった。著者は小島亮一というが、その名に心当たりはない。版元は朝日新聞社で、 1961(昭和36)年の発行だ。これだけの情報だと、東南アジア本なら買ってみようと考えるが、ヨーロッパの本だと通常は無視する。それなのに買ってし まったのは、売値が300円だったからだ。送料込みで600円程度なら、つまらない本でも諦めがつく。
 著者は朝日新聞パリ特派員だそうで、61年に「朝日ジャーナル」に連載された文章を一冊にまとめた本で、まだ全部は読んでいないが、内容はあまりおもし ろくない。だから、300円なのかとも思ったのだが、「あとがき」に書かれている著者自身の半生のほうがおもしろい。自伝を書けば、ずっとおもしろい本に なったのに。
 小島亮一は1909(明治42)年、東京・青山の生まれ。「三つぐらいの時から久留島武彦先生の早蕨幼稚園にはいった」そうだ。久留島の名に引っかかったが、それはあとまわしにして先に進む。
 青山師範学校付属小学校から暁星中学に進むが、1923(大正12)年の関東大震災で両親を失う。そこで、中学生にして家業の呉服屋を継ぎ、「バカ旦那の限りをつくし」つつ、、専修大学経済学部に入る。
 大学を卒業した昭和初め、「金解禁の余波」をうけて、呉服屋を廃業することにした。店をたたんだら、手元に1万円残った。ここで、本格的に勉強しようと 決心して、遠縁にあたる人にILOの職員に従って、その1万円を持ってジュネーブにいった。1931(昭和6)年のことだ。
 1932年にパリ大学社会学を学びはじめた。「2年したら、先生が日本の勤労階級の生活態度というテーマで論文を書いて見ろというので」、論文を書く ため、資料探しにジュネーブのILO図書館に行った。そこで、ILO日本代表の吉阪氏と知り合い、それが縁でILOの職員になった。
 ILOで働き始めて5年後、日本はILOから脱退して、小島も退職することになった。そこで、同盟通信社の特派員として職を得て、翌1940年にフランス人と結婚した。
 ここからがすごいと思うのだが、戦時中もヨーロッパで仕事を続けて、スペインで終戦を迎える。普通なら日本に強制送還されるところだが、妻の父親がいろ いろ手を使ったらしく「1946年2月、スペインからフランスへ舞い戻ってシャムパーニュ地方の寒村で百姓をはじめた。この農民生活が約5年間つづいた が、その間、朝日新聞に入社し、はじめは野良仕事の合い間に欧州通信を送った」
 1951年にパリに支局を開設し、60年まで特派員を勤め、30年ぶりに帰国した。