海外旅行が自由化されたのが1964年だが、その少し前に、中央公論社から『世界の旅』 (編集委員/大宅壮一、桑原武夫、阿川弘之 定価360円)という10巻本が刊行された。もう少し時代があとなら、このような企画でカラー写真を多く使っ た「見るだけのガイド」が各社から出版されるようになる。海外旅行は制度的には自由になっても、金銭的にはまだまだ不自由な時代だったから、「使える旅行 ガイド」は、まださほど必要なかったのだ。中央公論社の『世界の旅』シリーズの場合は、そのまた以前の状態で、カラー写真さえない。見る本ではなく、読む 本だ。ガイドになる文章も載っているが、おおむね旅行の心構えと、教養を基本とした内容だ。旅行本の内容を時代の変化であらためて見ていくと、まずは頭を 刺激する本が出て、次に目を刺激するビジュアル本がでて、その次は手や足や口を動かす実用ガイドの時代になるのだ。だから、1960年代初頭のこのシリー ズは、教養本の時代である。
具体的に、全巻の構成を紹介してみよう。刊行年は第1巻だけが1961年で、残りは9巻は1962年の刊行だ。
1 日本出発
2 インドから熱砂の国へ
3 アフリカ大陸
4 西ヨーロッパ紀行
5 ソ連と東欧諸国
6 北米大陸
7 ラテン・アメリカ
8 中国・東南アジア
9 南極とヒマラヤ
10 日本発見
たぶん、70年代に入ったころだろうが、この第1巻だけは古本屋で買っている。日本脱出 の準備をしているときで、その資料として買ったのだと思う。そして、つい最近、1960年代の日本人の東南アジア知識がどの程度だったのか知りたくて、 ネット古書店で第8巻の「中国・東南アジア」を買った。「ネット古書店」で、とあえて書いたのは、詳しい内容がよくわからずに注文したということだ。
数日後に送られてきた第8巻の目次を書き出してみると、こうなる。
菊の花、河、大地 十七年ぶりの中国 武田泰淳
中国の旅 中野重治
敦煌への旅 北川桃雄
辺境の町ウルムチ 浜谷浩
モンゴル紀行 坂本是忠
近くて遠い国、北鮮 木下順二
四川紀行、ジャヴァの十日間 桑原武夫
フィリピン、シンガポール、マラヤ、タイ 大宅壮一
アンコール 藤島泰輔
ベトナム、ラオス縦断旅行 梅棹忠夫
解説「発展しつつある国」の現実 桑原武夫
東南アジア部分の解説をしておく。桑原の「ジャヴァの十日間」は、雑誌「世界」(1960年5月号)からの再録。1959年に開かれたユネスコの国際会議に出席したときの紀行文だ。
ジョクジャカルタの宿が、「部屋もよく、なかなかうまい三食つき一日百八十ルピア(千八百円)だから、食堂にハエの多いくらい文句はいえまい」とある。つ まり、安ホテルなんだから、ハエが多いのは当たり前といいたいのだろうが、当時の日本では、若いサラリーマンの月給が2万円くらいだから、1800円はそ れなりに価値がある金額だ。つまり、日本円が安かった時代は、東南アジアの物価はときに日本より高かったのであり、ほかの社会主義国同様インドネシアも外 国人に法外な料金を請求していた時代でもあるのだ。
大宅の紀行文は、『黄色い革命』(文藝春秋新社)からの抄録。
藤島の「アンコール」は、『アンコールの帝王』(展望社)からの抄録だそうだが、元々興味のない書き手だから、それはどうでもいい。
梅棹の「ベトナム、ラオス縦断紀行」には、こういう解説がついている。「書き下ろし。近く『東南アジア紀行』として中央公論社より刊行」。実際に『東南アジア紀行』が出版されるのは2年後の1964年である。
こういうわけで、東南アジア部分に関しては、すでに読んでいる文章と元々読む気のない文章が並んでいるわけで、買う価値はあまりなかった。多分この巻だ けじゃないだろうが、海外旅行モノを編もうとすれば、どの社から刊行するのであれ、執筆者は同じになってしまうという時代だったのだ。外国に行ったことが ある人は少なく、しかもそのなかでまともな文章が書ける者で、しかも知名度もある者となれば、同じ人選になるのもしかたがない。
ただし、意外な付録がうれしかった。1970年代に買った第1巻は、函なしの裸のままで買ったので、付録のことは知らなかった。今回買った第8巻は函入 りで、「世界旅行読本」という24ページの付録がついている。毎号ついている付録らしいのだが、第8巻は「特集 海外出張社員心得帳」で、無署名の文章が ついている。おそらく、交通公社社員のアルバイト原稿だろう。署名原稿では、「土地カン養成法」(小田実)がある。このシリーズの第1巻では、小田の「か しこい旅、・強い旅」という40枚くらいの書き下ろし文が載っている。
おそらくは、生活費稼ぎのために書いた文章だろうが、1960年代の若者の海外旅行感を知る意味でも貴重な原稿だと思う。この手の原稿が、小田の全集に入っているかどうか、調べてみたくなった。