202話 石森章太郎の海外旅行 その3


 3カ月の海外旅行を終えて2年後、石森は旅行記を出版した。『世界まんがる記』(三一書房、1963年4月)は、のちに同じ書名のまま中公文庫に入った(1984年)。今回はこの旅行記をネタに話を進める。
 1960年代初めの若者が、外国旅行をどう考えていたのかがよくわかる文章がある。

 「人間“死”に関する限りは、ハイそれまでヨで、誰にも 条件は同じだ。が、やりたいことをやって後での死と、何もしないで迎える死とでは、気持の上でベラボウな相違がある。ボクは、生きている間にやっておきた いことの手始めに、子供の頃からの淡い夢であった、外国旅行を選ぶことにしたのだ」

 当時の普通の日本人にとって、海外旅行など生きているうちにできるとは思えないものだったが、売れっ子マンガ家になった石森には、23歳ではあっても、無理をすれば可能な選択肢のひとつに入った。
 旅を終えた石森に、友人たちがいろいろ批判している。
 「旅行なんかする金があったら、土地を買って・・・・、家でも建てた方が利口じゃないか?」
 現在の感覚では、海外旅行か家かを同列には考えられないのだが、海外旅行が高価だった当時は、場所によれば「旅行をやめて家を建てる」という選択肢はありえたのである。
 1964年の新聞から不動産広告を眺めて、場所とひと坪あたりの値段を書き出してみる。
四谷三丁目 徒歩10分  16万円
代々木上原 徒歩6分   10万円
牛込柳町  徒歩5分   16万円
武蔵境   徒歩12分   3万3000円(三鷹市
上大岡   徒歩10分   1万9000円(横浜市
 こういった資料をいくつか読んでわかるのは、東京23区でも練馬区あたりなら、駅から近 い土地でも、坪数万円で買えたことがわかる。交通が不便な土地なら、1万円未満でも買えた。石森の全旅費が300万円だったとすれば、100坪くらいの土 地が買える金額に相当する。家の建築費にも300万円かければ、ちょっとした豪邸になっただろう。石森の海外旅行というのは、そのくらいの金銭的価値が あったということだ。
 『世界まんがる記』から、エピソードをいくつか拾い読みしてみよう。
 石森が旅に出る直前に、NHKの番組に出演したという。海外旅行をテーマにした座談会だ。出席者は、これから海外旅行に行く石森章太郎と、海外旅行体験者である小田実(『何でも見てやろう』)と桂ユキ子(『女ひとり原始部落を行く』)。司会は東大助教山下肇
 1961年に取得した石森のパスポートは第400875号、職業は「株式会社S社社員」。S社というのは、集英社である。私は、集英社の雑誌編集部から派遣されるフリーの記者という身分かと思ったが、じつは「社員」という資格になっていたことがわかる。
 やはり、海外旅行自由化前の話だが、玉置宏がテレビ(ハワイ特集の番組だったか?)でこんなことを話した。
 「もう時効だからしゃべっていいでしょうが、石原裕次郎がハワイに遊びに行くとき、『観光旅行』の名目では行けないので、Tという工務店、えーい、いいでしょ、書類上は竹中工務店の社員が出張するということになっていたんですよ」
 この話を聞いて、当時の裕次郎のハワイ旅行の資料を探したが、こういう裏事情がわかる資料はまだ見つけられない。このあたりの事情がわかる資料をご存知の方は、ぜひ教えてください。
 当時の海外旅行は、カネだけでなく、強いコネも必要だったという話である。
 旅行記を読んでも、私の想像どおり、特に豪華な旅をしているという印象はない。値段がわかりそうな記述を探すと、こういう文章があった。特別な1日らしい。
 「西ベルリンでは最新最大のヒルトンホテル」に泊まり、「俄成金は」調子にのってホテルのレストランで食事をして、「二十マルク(約二千円)をまき上げられてガックリときた」。
 このヒルトンホテルの公式料金は、シングルで約13〜26ドル。日本円にすれば、4680〜9360円だから、宿泊費と比べれば、それほど高い食事代と も思えない。それはドルで考える相対的判断であって、日本円で考えれば、「二千円の食事」は若いサラリーマンの月給の6分の1、現在なら3万5000円く らいの感覚だろう。
 旅行記を読んでも、とりわけ豪華とは思えない理由は、日本円は安く、ドルなど外貨は高かったからなのだが、もし石森が闇ドルを日本で買って持ち出してい れば、1ドル400円くらいの価値しかないことになる。ということは、20ドルのホテルは7200円ではなく8000円だから、日本円のつかいでが余計に ないのだ。
 石森がニューヨークで、店員がいないのに買い物ができる箱を路上で発見している。自動販売機というものを知らない日本の読者に、詳しく説明している。い までは、路上の自動販売機は日本的風景のひとつになっているのだから、時代の変化というものだ。ちなみに、中高年はよくご存知の、ビンを自分で取り出すス タイルのコカコーラの自動販売機の日本初登場は1962年。石森が帰国後のことだ。
 『世界まんがる記』には映画の話など、おもしろい記述はまだまだあるが、きりがないのでこれくらいにしておく。