253話 『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第七話

  旅の持ち物




 1962年に、太平洋をヨットで単独横断した堀江謙一の航海記『太平洋ひとりぼっち』に 出ている装備品リストについて、沢木は「一九六二年という航海時の時代性を感じさせる」例として、「サルマタ」や「落とし紙」という表記を紹介している。 そういう話を枕に、『旅する力』のなかで、自分自身の持ち物リストを紹介している。記憶をもとにのちに書いたものではなく、出発前に作ったリストだという から、私のような物質文明兼海外旅行研究者には、まことにありがたい。人は、外国旅行をするときに、どんな物を持っていくのかというテーマも、私には非常 に興味深い。時代や民族によって、旅の持ち物に違いがあるからだ。
 堀江の装備リストを沢木がチェックしたように、私は沢木の持ち物リストから、「一九七四年という旅行時の時代性を感じさせる」ものを書き出してみよう。
 まずは、バッグだ。
 「旅するスタイルは、いまでいうバッグパック姿だったが、当時のバックパックはいまのような機能的なものではなく、登山用のキスリングをいくらかスマートにしたていどのものにすぎなかった」
 その「いくらかスマートにした」キスリングを、アメ横で買ったのだという。
 1970年代前半の若い旅行者は、キスリングと呼ばれる登山用の横長リュックサックを使っていた。若い貧乏旅行者の伝統が、山岳部、探検部、ワンダー フォーゲル部といった団体の影響を強く受けていたからだ。私も、1973年の最初の海外旅行のときは小さなキスリング状のリュックだった。貧乏旅行は リュックを背負って行動するものだという情報を本で知り、しかし山登りなど縁のない若者である私は、キスリングというものをどこで売っているのかまったく 知らず、本屋で山と溪谷社などの山岳雑誌の広告を見て、秋葉原に買出しに行った。
 土色のリュックを背負って日本を出たものの、インドで同じようなリュックを背負っている旅行者は少なく、パイプの背負子がついた軽快なリュックが目立っ た。フレームザックというものだ。そういうリュックを背負った日本人旅行者に「どこで買ったのか」と聞くと、みんな「ヨーロッパで」と答えた。翌1974 年にまた旅に出るとき、日本でもどこかで手に入るかもしれないと考えた。その可能性が高いのはアメ横で、私の勘は当たり、見事入手できた。
 バックパックとは、リュックサックを意味する英語で、1970年代前半はまだそういう英語が日本に入っておらず、だから「バックパッカー」という語もまだほとんど知られていなかった。
 沢木の持ち物リストで、時代性を感じさせるのは、まず「海水パンツ」。なぜか、水泳用のパンツを、海水パンツ、略して「海パン」と呼んでいた。プールや 川で泳いでも、海パンだった。海パンなど、もう死語だろうと思いつつ、そのあたりの事情をインターネットで調べてみると、おいおい、まだ生きている語だ。 楽天でもヤフーでも、通販で「海水パンツ、海パン」という名でも、販売している。そうか、若者にもまだ通じる言葉だったのか。私が無知だった。
 でも、これはもう死語だろう、「ゴムゾウリ」。現代の若者にも意味はわかるだろうが、日常語ではないだろう。私自身、ゴムゾウリという語はほとんど使っ たことがなく、サンダル、あるいはビーチサンダルと呼んできた。それはともかく、1970年代の日本の若者は、サンダル履きで旅行していることが多かっ た。スニーカーが登場する以前は、熱帯を旅する日本人の若者は、飛行機などで移動するとき以外、サンダル履きが多かったような気がする。というわけで、い つか「サンダル履き旅行者の時代」といった文章を書いてみようと思っている。旅行記のなかで、「サンダル」という語をよく使っているのは、立松和平だ。
 「パジャマ(下だけ)」というのは変だが、まあ素通りしよう。「歯磨き粉」と「石鹸」はあるが、シャンプーもリンスもない。石鹸で髪を洗ったのだろう か。「抗生物質」の前に、バンドエイドや、当時なら正露丸がリストに入っていてよさそうだが、これも素通りする。『旅する力』の若い読者にとって、よくわ からないのは、おそらく「袋状のシーツ」だろう。これはユースホステル利用者必携で、持っていないとシーツを有料で借りないといけなかった。だから、ユー スホステルを利用する貧乏旅行者は、袋状のシーツを持っていたのだ。ユースホステルの事務所でも売っていたが、節約のため、若き旅行者は母親に作ってもら うことが多かった。