308話 事実を書くということ

 沢木耕太郎は、そのデビュー作『若き実力者たち』(1973年)がまだ単行本になる以前に雑誌掲載時に読み、その才能に感嘆にし、衝撃を受け、以後しばらくは、沢木の本を読み続けることになった。ところが、『テロルの決算』(1979年)を最後に読まなくなった。その理由は、「どうも、おかしいぞ」という違和感だ。ノンフィクションだと思って読んでいたのに、故人の密室での言動が語られていると、「オイ、オイ、誰が見たんだよ」と突っ込みたくなる。そういう、事実と妄想と創作の区別がつかない作風になじめず、以後、彼の本は読まなくなった。「事実に基づく小説」だと思えばいいのだろうが、私は小説を読まないから、結局、彼の「ノンフィクション」という作品は読まないのだ。
 90年代の末ころだったか、記憶がはっきりしないのだが、沢木がFMラジオの番組で自分の作品について語っているのを偶然聞いた。作品のなかの「事実」について語っていたのをよく覚えている。
 沢木いわく、事実とは、誰からも「事実ではない」と指摘されないことだという。例えば、「坂本龍馬が明治政府で大活躍した」と書くと、歴史的事実に反しているから、「事実」として書いてはいけない。しかし、龍馬が暗殺される数日間に感じていたことを想像で書いても、「それは事実に反する」と誰も反論できないので、著作のなかで「事実」として書いていいのだという。沢木にとっての事実というのは、そういうことらしい。
 ということは、旅行記ということになっている『深夜特急』にしても、沢木の行動は、沢木以外に「事実に反する」と指摘できる人間はいないのだから、旅の内容をどのようにアレンジしようが、創作しようが、歴史的事実に反しない限り、自由に書いていいということになる。事実ではないことでも、作品のなかでは「事実」として自由に創作してもかまわないというわけだ。猿岩石のようにタイからビルマヒッチハイクで行ったということにしたら「事実」とはならないが、客観的事実としてありえない行動を書かない限り、どんなことをしても、「事実」として書いていいということらしい。つまり、『深夜特急』は、事実を基本とした小説である可能性もある。そういう作風が好きな人もいるだろうから、一概に悪いと批判する気はない。好みの問題なのだが、少なくとも、私の好みではない。
 新聞記事や学術論文などは別にして、旅行記や身辺雑記なら、書いてあることが事実であるか創作であるか、書き手にしかわからないことだから、読者はそのまま受け入れるか、あるいは違和感があって嫌になれば、読むのをやめるしかない。読者の立場にしてみれば、書き手が体験したことをそのまま書くか、創作部分を加えて書くかといったことは、多分どうでもいいことだろう。おもしろい話を読みたいだけなら、事実などどうでもいい。事実を読み解きたい場合は、敬遠するしかない。往々にして、おもしろすぎる話は創作である場合が多いような気がする。
 私の場合はどうか。事実だと思っていたことが、じつは誤解だったということはあるだろう。無知が原因で、間違ったことを書いてしまうこともある。しかし、意識的に創作をしたことはない。それは私の自己規制ではあるのだが、同時に能力不足が原因で創作ができないせいでもある。小説が嫌いで読まないせいなのか、フィクションを書くことができない。ありもしない話を作り上げて感動的なストーリーに仕立てる才能がないから、架空の旅行記などまったく書けない。私には想像力が欠如しているのだ。もしも私が才能ある書き手なら、想像でおもしろそうな旅行記を増産して、蓄財することができたかもしれないが、そういう才能は私にはないのだ。
 だからと言って、自分の体験をそのまま書いているわけでもない。文章化するということは読者がいるということなので、事実通りに書くとどうにもわかりにくい場合は、簡素化することはある。例えば、5人の旅行者と会って話をしたのに、そのまま書くと登場人物が多すぎるので、2人と話したようにするといった加工はある。あるいは、1日に起こったことを、わかりやすくするために、2日間の出来事として書いたり、大胆に省略するというようなことはあるが、実在しない人物を登場させることはない。ありもしない「感動的な旅の体験」を創作したりはしない。