1035話 旅する目的、あるいは旅する理由


 1964年4月以降、日本人は目的もなく外国に行くことが許される時代になった。実際の目的が何であれ、パスポート申請書に「観光」と書くだけでよくなった。今では、「渡航目的」を書く欄そのものがない。公的には、旅する目的など求められないのに、自分自身で目的を作らないと旅ができない人がいる。
 書店で『旅人の文章術』(角幡唯介集英社、2016)を手に取って、「買おう」と決めた理由は、目次に「梅棹忠夫西陣、北山」という項目があったからだが、もっとも印象に残ったのは、いわば「巻頭言」にあたる冒頭の文章だ。「旅を書く、自分を書く」という章の最初の部分だ。
 植村直己は決して受けなかっただろうと思われる質問を、角幡氏はよく受けるという。植村は本を書くために山に登ったのだとは思われないが、角幡氏の場合は、本を書くために探検や冒険に出かけているのではないかという質問を受けるという。
「行きたいから、そこに行く」のではなく、行くことで何が書けるのか、どう書けるのかを考えての探検なので、一部の読者には「行動者としての純潔を保てていない」という疑念があるというのだ。つまり、旅に出たいから旅をするのではなく、本を書くために旅をしているのはうさん臭い行為だと感じる読者がいるということだ。
 角幡氏自身、当初は、探検者としての自分と、表現者としての自分が分裂してジレンマに悩まされたが、今は探検者と書き手が自分のなかで無理なくひとつにまとまっているという。「もし今、書くという手段を封印されても、探検に行くのかと訊かれたら、行くかもしれないが、それは探検にはならないだろうと答えると思う。作品にして発表するという構想が、旅に出ようとする私の背中を強力に押している」と書いている。
 こういう話題は読者にはあまり関係がないだろうが、私のように文章を書いている者には、ちょっと考えるテーマだ。
 「旅行記を書くために旅行をするのは、純粋じゃない」と批判したい読者がいることは知っているが、そういう批判は無視していい。純粋かどうかなどということはどーでもいいが、書くための旅か、書く考えのない旅なのかで、旅の形が変わることはある。私の場合、食文化や三輪車やタイ音楽などは取材のための旅をしている。手をつけた時点で出版が決まっていたわけではないが、いずれ本にしたいという思惑で取材をしている。ただの旅なら、市場で見かけた物を、「変な物があるな」で済ませてしまうことがあっても、本にするという考えがあると、もう1歩も2歩に歩み寄って、その物の正体を確かめたりする。ただし、こういう好奇心の発露は、書く目的がなくても「知りたい、調べてみたい」という行為に結びつくことはある。
 本にするかしないかという旅の違いは、私の場合、写真だ。ちょっと前からブログにも写真を載せることになったが、取材に関係のない旅はいっさい撮影をしなかったが、取材となれば、いたしかたなく、それ相応の装備を用意する。そういう違いはある。
 私は不幸にして売れないライターだから、角幡氏と違って、「書かないならば、旅にならない」などということはない。私は探検家でも冒険家でもジャーナリストでもノンフィクション作家でもないから、ただの、なんということもない旅を楽しむことができる。本にすることができないならウチを出ないというのであれば、もう一生旅をしないことになってしまう。また、私は角幡氏とは違って、旅に命を懸けていないから、旅に巨額の費用も体力も要求されない。街のその辺を楽しく散歩できれば、それでいいのだ。たいしたカネがかかるわけではないし、身の危険もないから、覚悟もない。
 文章を書くことと読書との関係でいえば、これはもう明らかに「書くから、より多く読む」のである。私の場合、「読んだから、書く」ことももちろんあるが、文章を書くために資料を買い続けて、読みまくることも多い。書くことで、好奇心がより刺激されるのだ。もし、書く気がないなら、こんなに本を買わない。読みたい本だけを買うだけで、「読まないといけない本」などなくなる。何かを調べていて、このあたりの資料を読みたいとなったら、イギリスから本を取り寄せたこともある。ただの道楽の読書なら、そんな面倒なことはしない。「知りたい、書きたい」という好奇心がそういう面倒なことをさせてしまうのだ。道楽だけの旅なら見逃すことも、取材の旅ならあと一歩踏み出して調べるということと同じだ。道楽で読む本が年に100冊だとすれば、書くために読む本があと100冊以上増えるということだ。
 書くことで原稿料がもらえるなら、それはそれは大変にうれしいことだが、カネが稼げないなら書かないなど考えていたら、もう文章を書く機会はなくなるだろう。あるライターは、「ブログなど書いても、原稿料が入らない」という理由で、ブログをやめてしまった。私は、書きたいから書くだけだ。だからと言って、身辺雑記を細々と書いていくのはつまらんと思うので、ついつい資料を買い集めてしまうのだ。