307話 同じ話をまた書くということ

 読者の「また、その話を書きやがって、同じネタで何回稼ぐつもりだ」という批判が恐ろしくて、極力同じ話は書かないようにしていた時代がある。
 ある作家が雑誌や新聞に書いた文章を集めたアンソロジーを読んでいると、同じ話が何度も出てきてうんざりさせられることがある。さまざまな雑誌に、時代を超えて同じ話を書き続けていたのだ。当人にとって重要な出来事ではあっても、何度も同じ話に付き合わされるのはつらい。こういう恥ずかしいことはしたくないと思う。
 作家のなかには律儀な人もいて、「そんな事態になったいきさつは、すでに書いたので、ここでは触れない。興味のある方は前著をご覧ください」と書いてあることもある。その「前著」を探して、本屋や図書館に行かなければならないのは面倒だ。それなら、一部の者に「また、同じ話か」と言われようが、ここで「そのいきさつ」を書いて欲しかったと思うこともある。要するに、自分がすでに読んでいるかどうかで、当然ながら、同じ話に対する判定が変わるのだ。
 読者ではなく、ライターの立場になって、「同じ話は二度と書かない」と決めていても、ある程度文章を書いてくると、すでに書いた話でも、別の話を書く過程で、すでに書いた話に触れないわけにいかなくなることもある。どうしようか、また書くことにするか、などと考えていると、もうひとりの私が語りかけてくるのだ。
「お前は、もしかして、自分を売れっ子作家だと思っているんじゃないか。違うだろ。まったく売れないライターだぞ。そもそもお前の文章を読む者は少なく、雑誌に書いたある文章をたまたま読む人はごくわずかで、その内容をいつまでも覚えている者など、さらに少ない。日本に数人いるかどうかだろう。ライター本人が書いたかどうか記憶にないくらいなのだから。だとすれば、何回か同じ話を書いても、いっこうに差し支えないだろ」
 説得力にあふれた発言である。というわけで、文章を書くときに、かつて書いた話題と重なる部分があるかどうかという点に関して、いまではそれほど神経を使わなくなった。ただし、もうひとつの問題が起こって来た。同じ話を書くことはわかっていても、脳みその経年変化によって違う話になってしまう可能性があることだ。例えば、ある作家と初めて会ったのは、かつては「その作家の出版記念パーティーだった」と書いていたのに、のちの文章では「成田空港の出発ロビーだった」などと書いてしまう可能性がある。記憶そのものが変わってしまったからだ。記憶があいまいになると、それを補うように妄想が穴を埋め、もっともらしい話に仕上げることもきっとあるだろう。そうなると、事実と創作の区別がつかなくなってくる。