252話 『旅する力 深夜特急ノート』の読者ノート 第六話

『現代の旅シリーズ』



 山と溪谷社が出した「現代の旅シリーズ」のラインアップは、出版年順に次のようになっている。
『北帰行』     渡部由輝 1973
『極限の旅』    賀曾利隆 1973
『旅の発想』    佐貫亦男 1973
『逆桃源行』    竹中労  1974
『ぐうたら原始行』 関野吉晴 1974
『風浪の旅』    檀一雄  1974

 沢木は、自分を旅に誘い出したひとつの要因として、竹中労の名をあげ、檀一雄の『風浪の 旅』の書名をあげている。おそらく、沢木は『逆桃源行』も読んでいるだろう。『北帰行』と『旅の発想』の2冊を除いて、私は発刊時にすぐ買い、いまでもそ の4冊は宝になっている。すべて名作だと思うが、その後復刊されることもなく(多分)、幻の名著となっている。ちなみに、賀曾利・関野の両氏には、 1970年代末にインタビューしたことがある。それから20年以上たって、ひょんなことから再会したが、当然ながら、両氏とももちろん無名の貧乏ライター のことなど覚えていなかった。私だって、会った人のほとんどを忘れているのだから、これはもちろん恨み言ではない。
 沢木のエッセイを読んでいて気がつくのは、旅に関する読書事情が私とよく似ていることだ。沢木は1947年生まれ、私は1952年生まれで、5歳の年齢差があるのだが、1960年代末から1970年代の読書体験が、少なくとも旅行関連でいえばかなり重なるのである。
 檀一雄の本もそうだ。檀の紀行文や旅行エッセイは、たぶんすべてといっていいくらい読んだと思う。私は小説を読まないが、『火宅の人』は、放浪旅行記と して読んだ。もちろん食味エッセイも読んだが、私は食文化に強い興味を持っているので、檀の食味エッセイのよい読者ではない。何がうまいかという話は、ど うでもいいのだ。開高健の作品の場合は、小説も含めて単行本になったほとんどすべての作品を読んだ。やはり、小説は好きにはなれなかったが、いくつかの作 品は、最後まで読むだけの魅力ある文章だった。文章の技を、文の芸を味わった。ついでに言えば、小田実の場合は、旅行エッセイはほとんど読んだが、小説は ほとんど読んでいない。読む気が起らない小説だ。
 沢木は、のちに『檀』という本を書くほど、檀一雄に対して強い関心があったようだが、私は檀一雄の単なる読者で終わった。『風浪の旅』のほか、『老ヒッ ピー記』(浪漫、1974)と『火宅の人』(新潮社、1975)を読んで、それ以後、檀を書いた本は読んでも、檀自身が書いた本は読んでいない。ポルトガ ルに行ったときも、檀の住まいがあったサンタ・クルスに行ってみようという気にはならなかった。金子光晴が好きでも、彼の足跡を求めてマレーシアを歩くと いった文学散歩にも興味がないので、サンタ・クルスに行かなかったことに、格別の理由があるわけではない。
 私も沢木も、旅の本に関しては、読んでいた本が重なるような気がするのは、ふたりとも街の旅に興味があるからではないだろうか。
 成人して、旅の日々を続けている椎名誠の場合は、興味が辺境・極限の地だから、青少年時代の愛読書は『世界ノンフィクション全集』(筑摩書房)に載って いるような作品だ。『世界最悪の旅』であり、『さまよえる湖』の世界だ。「世界旅行における体育会系と文科系」というのも、おもしろいテーマだ。これは、 団体旅行か個人旅行かの違いでもある。