256話 『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第九話

  航空券売買




 『旅する力』には興味深い記述が数多いが、「ホントかよ!」と思った話がひとつだけあ る。他人の航空券、それも女性の航空券で日本まで飛んだというのだ。沢木はパリでその航空券を買い、アエロフロートのパリ発モスクワ経由便で羽田へと飛ん で帰国した。125ドルだった。日本人が働いているパリの事務所で、その航空券を買ったという。推測だが、羽田・パリという往復航空券を買ってフランスに 来た日本人女性が、何かの事情で復路が要らなくなりこの会社で売り、沢木が買ったということらしい。
 だが、そういうことが可能だろうか。まあ、可能だったと、沢木は書いているのだが、その説明がよくわからない。
 オルリー空港アエロフロートのカウンターに行くと、すべては搭乗口で管理しているので、先に進めと言われた。そこで、出国審査を受け、パスポートに出 国のスタンプが押された。そのまま搭乗口に進むと、アエロフロートのチェックインカウンターがあり、手続きをした。渡された搭乗券には、航空券に書いてあ る女性の名前ではなく、沢木の名(正確にはペンネームではなく、本名だが)が書いてあったというのだ。
 多少なりとも海外旅行事情を知っていれば、こういうシステムはおかしいと思うだろう。出国手続きを終えてから航空会社のチェックインがあるというのも、 航空券とは違う名で搭乗券が発券されるというのも、あれもこれもおかしい。そういう異常さを沢木も書いているから、沢木の作り話でも勘違いでもなく、おそ らく事実なのだろうが、でもなあ、と思うのである。というのも、実は、こういう話を耳にしたからだ。
 沢木がヨーロッパにいたのと同じ1975年、私がロンドンにいたときのことだ。地下鉄のアールスコート駅近くのスーパーマーケットの外壁に、旅行者には よく知られた掲示板があった。管理人が誰か知らないが、掲示板の利用を希望する人は、ハガキ大の紙を買い、そこに要件を書いて、一定期間掲示する。ガラス 張りの掲示板には、インド旅行の同行者募集といった案内や、「デイブ、YH で待ってるわ」といった伝言のほか、売りたし買いたしの案内もあった。そのなかに、日本語で書いた「東京までの航空券、売ります」というのがあった。売り 値を覚えてはいないが、おそらく日本円にして4万円か5万円くらいではなかったかと思う。
 シベリア鉄道でヨーロッパに来て、帰路の航空券を持っていない私は、いずれ安い航空券を探さなければいけない立場にあったが、航空券の個人売買は不可能だと思っていたから、掲示板の広告の信憑性が気になった。
 ひょんなことで知り合ったロンドン在住の日本人にその疑問をぶつけると、こういう体験談を語ってくれた。
 数年前、彼は友人の知り合いから、日本までの航空券を買った。その人物は、1年間有効の航空券を買ってイギリスに来たのだが、ロンドンで仕事が見つかり、このまましばらく居たいというので、帰路の航空券を売ることにしたのだという。
 「で、その航空券をどう使うの? 他人名義でしょ」
 「だから、その人が空港まで来て、チェックインをして、代金と引き換えにその搭乗券をもらうんだよ」
 当時は、出国手続きはパスポートだけで、搭乗券を見せる必要はなく、飛行機に乗るときは搭乗券だけ見せればいいから、それで手続きは完了する。そういう説明だったと思う。
 彼はそうやって搭乗券を手に入れたのだが、その後事件が起る。飛行機に乗る直前に、制服の男がやってきて、「搭乗券とパスポートを見せろ」と言われ、名義が違うことを追及されて、搭乗禁止となった。航空会社のチェックインカウンター周辺で監視されていたらしい。
 彼の荷物は日本に行き、彼は日本に飛べず、しかしイギリスに再入国はできず・・・といったその後の話も聞いたが、まるで覚えていない。もう、30数年前のことだ。体験者から聞いた話なのだが、重要な細部を覚えていない。
 というわけで、1970年代なかばのヨーロッパの航空券事情を、どなたか専門家の方に解説していただきたいと思う。