257話 『旅する力 深夜特急ノート』の読書ノート 第十話

  中年旅行者




  沢木は、旅に対する最近の心情をこう書いている。
「残念ながら、いまの私は、どこに行っても、どのような旅をしても、感動することや興奮することが少なくなっている。すでに多くの土地を旅しているからということもあるのだろうが、年齢が、つまり経験が、感動や興奮を奪ってしまったという要素もあるに違いない」
 「ワールドカップの期間中に長期滞在したドイツの記憶は、どれもフラットで凹凸がないのだ。おいしいものを食べることができ、人との不思議な出会いもあ り、静かな場所での静かな時間を持つことができたのに、心を締めつけられるような思い出にはなっていない。つまり、旅の濃度が違うような気がするのだ。若 いときに比べると、風景も人もすべてが淡く流れていったような気がしてならない」
 「かつて、私は、旅をすることは何かを得ると同時に何かを失うことでもあると言ったことがある。しかし、齢を取ってからの旅は、大事なものを失わないかわりに決定的なものを得ることもないように思えるのだ」
 私がこういう感覚に最初に襲われたのは、30代なかばのころで、旅はしたいが旅をしても以前ほどおもしろくなくなったと感じていた。無茶をしなくなった からであり、無茶をしても、最悪の事態にならないような対処法が身についていて、「難なく」移動できるようになっている。だからといって、さらなる危険を 求めて、自分なりの「グレートジャニー」に出て行こうという気もない。私は辺境派でなく、街歩き派だ。
 日本以外では、タイで過ごした時間がいちばん長い。街を歩いた時間と言う意味では、東京よりもバンコクのほうがはるかに長い。それなのに、実はタイの旅 行記はあまり書いていない。取材した話を書いたことはあるが、いわゆる紀行文のようなものはあまり書いていない。その理由を沢木風にいえば、「経験が感動 や興奮を奪ってしまったという要素もある」からだと思うのだ。
 タイでのんびり、のんきに過ごしていて、それは楽しい日々であり、それなりに雑学本も書いたが、むかし味わったような旅の感動は、80年代なかばで終 わっている。感動したり、驚いたりしていた旅行者の時代を終え、その感動や驚きの原因や歴史を探る雑学ライターとなって、旅の現場から数歩引き下がったの だ。旅の枠の中で過ごしていた時代を終えて、旅の枠の外に出て、旅そのものと、旅する土地と、旅する自分を、俯瞰している。私はすでに、「スレッカラシ」 であり、「老練」な旅行者である。
 インドを例にすればわかりやすいだろう。初めてインドを旅すれば、それもひとりで、比較的長期間、乏しい資金で旅すれば、強烈なインドが旅行者を襲う。 貧困、病人、詐欺師、泥棒、死者、乞食、客引き、延々と続く質問、気温、臭気、騒音。そういう刺激を受けると、興奮し、怒り、感動し、日記帳に長々と体験 談や思索メモを書きたくなるだろう。
 ところが、何度も旅を繰り返すと、かつての強烈な刺激が、たいした刺激とは感じなくなる。旅にとって、慣れは味方であり敵でもある。味方になると旅がしやすくなるが、そのぶん感動が弱くなる。
 旅行などを例にせず、誰にでもわかるように説明すれば、エロッチックな体験を考えればいい。小学校高学年の少年にとって、めくるめく世界を見せてくれた ヌード写真だからといって、中年になっても同じ写真で同じように興奮するということはない。中年や初老になった自分に、10歳の男の子のウブさを求めても 無駄で無理ということだ。まあ、そういうことだ。
 読書ノートは、今回で終わる。