528話 『あの日、僕は旅に出た』をめぐるいくつかの話 後編

 
 若い頃の旅は日々新鮮で、ただ歩いているだけでさまざまな物語が目の前に現れて、それがいつまでも色あせずに輝いている。だから、旅の話を書くネタに苦労はしないのだが、その後の旅はどうも印象が薄い。ほんやりとそんなことを考えていたら、沢木耕太郎も同じようなことを書いているのを見つけ、「やはり、そうか」と思った。
 その話題を田中真知さんにしたら、「やっぱり、そうですよ。若い頃の旅は密度が違う」といった。真知さんも私も、あるいは蔵前仁一さんにしても、旅行をしているうちにライターになった者は、ある時期から旅行者の目から観察者であるライターの目に変わるのだ。旅先で出会う渦のなかでふらふらと漂うのをやめて、その渦から半歩退いて、渦の観察者となる。私の場合でいえば、アフリカから帰ってからは、東南アジアで本格的な食文化観察者になり、三輪車や音楽の観察者になった。第三者が見れば、相変わらずただ漂うように遊んでいるだけのようで、事実本当に遊んでいるのだが、観察者の目は絶えず光らせている。「文化の観察」が、旅最大の遊びだからだ。
 観察者になる前の、ただの旅行者時代は、何も考えずに成り行きで旅をしているだけで楽しかった。旅程など、まったく考えなかった。時間はいくらでもある。好奇心もいくらでもある。体力もある。常に不足していたのは資金だけだが、それは工夫である程度なんとかし、何ともならなくなったら、つまりカネがなくなったら、日本に戻り、また稼ぐだけだ。そういう旅を続けているうちに、漂うだけでは満足できなくなり、自分の旅に芯が欲しくなる。私の場合、その芯が本格的な「文化の観察」だった。
 この前ふと考えてみたのだが、初めて行った国で、すでにちゃんとしたガイドブックがあった国はヨーロッパだけだ。『ヨーロッパ1日○○ドル』という英語のガイドブックがあったのだが、そういうガイドがあることを知らずに旅をしていたから、無いも同然なのだ。アジアやアフリカは、「地球の歩き方」はもちろん、「ロンリー・プラネット」もない時代に旅を始めた。空港に着くと、観光案内所で地図をもらい、街の中心地に出るバスの情報をもらい、街の観光案内所や出会った旅行者から安宿情報を教えてもらい、安宿でその街やその国の旅行情報を教えてもらう。そういう旅を、インドでも韓国でも、どこの国でもやっていた。それ以外に、情報を手に入れる手段はなかったのだ。「ガイドブックなど持たない方がいい」と考えて旅をしていたわけではなく、買いたくても、使えるガイドンブックなどこの世に存在しなかったのだ。もしもいいガイドブックがすでに出ていれば、当然手に入れていただろう。
 朝日新聞に載った蔵前仁一インタビュー(9月1日朝刊)、「効率が悪いほど、発見がある」を読んでいて、頭に浮かんだのは、若い時代の旅とガイドブックのことだ。ガイドブックのない旅は、当然、効率が悪い。だが、「効率が悪いほど、発見がある」と言っている人が、旅行ガイドを書き、編集し、発行して、効率のいい旅ができるように手助けしてきたのはなぜなんだいと、つっこみたくもなるが、そのあたりの事情説明はきっと本人がするだろう。
 私が忖度するに、どんなガイドブックがあっても、その1冊でどこへでも行けるわけじゃない。現実の旅はガイドに書いてあるようには進行しないもので、北部の旅は無視かよ、バス路線はなくなっているぞ、列車は明日まで来ない、突然入国できなくなった、おいおい内乱かよといったようなことがあり、個人旅行は団体旅行のように効率よくは旅できないもので、だから団体旅行にないおもしろさがあるのですよと、天下の蔵前師は言いたいのかもしれない。
 蔵前さんがガイドブックに頼れない旅をした『わけいっても、わけいっても、インド』を私が高く評価するのは、誰かが同じような旅をマネしようとしてもなかなかできないからだ。秘境や戦乱の地ではないから、多少の手間(かなりの手間か?)をかければ美術の村に行けるかもしれないが、美術の目と頭がないと蔵前さんの旅をなぞることはできない。「効率よく、短期間でインドを体験したい」という人にはできない旅であり、見る目と考える頭がないと、インド先住民の絵を読めない。
 蔵前さんがインド先住民美術に出会うのに30年かかったとすれば、たしかに効率が悪い。しかし、インドを旅して30年かかって、小さな村にたどりついたわけで、30年は必要な時間だったのだろう。