529話 長崎のシャム通事

 江戸時代の外国語学習事情が知りたくて、『<通訳>たちの幕末維新』(木村直樹吉川弘文館)を読んだ。「へー、そうだったのか」とわかったのは、江戸時代の通訳は医者と同じで、一子相伝の家業だから、親が子を教育する。武士と同格には扱われないという劣等感があったようで、幕末になって通訳の仕事が増えると、通訳だけが脇差だけで会議に出るのがいたたまれなくて、武士への昇格を願い出たという。しかし、武士にならないほうがいいという考えも同時にあった。というのは、通訳はその語学力を生かして個人的に貿易業務も行なっていたからだ。そういうことも、この本で初めて知った。
 日本に密航して来て、日本最初のアメリカ人英語教師となったラナルド・マクドナルドの話は、ずっと前に興味を持ち、私としては珍しく小説を読んでいる。吉村昭の『海の祭礼』だ。今回は、『<通訳>たちの幕末維新』を読んでいたら、名前だけは知っているがそれ以上は何も知らない人物のことも知りたくなって、やはり吉村昭の『アメリカ彦蔵』も読んでみた。ジョン万次郎ほどには知名度の無い人物だ。ある本を読んでいて、次々と関連書も読みたくなる本は、よくできた本だといえる。
 さて、『<通訳>・・・』のなかの、出島を管理する長崎奉行に関する資料部分を読んでいたら、通訳のリストに「シャム通事」という語が何の解説もなしに出ていた。江戸時代に、すでにタイ語通訳がいたのか? 当時の資料だから間違いではないだろうが、どういう人物が、どういう活動をしていたのだろうか。
 インターネットには断片的な資料がわずかにあるが、もっと詳しく調べるにはどういう資料にあたればいいのだろうか。神田神保町にある日本タイ協会に協力してもらって、内部資料を見ることができた。『十七世紀に於ける日暹関係』(外務省調査部、1934年)という貴重な資料を見ることができたのだが、昔のかたい日本語の文章のなかに江戸時代の文章の引用があるので、ここでまた引用すると旧漢字を印字するだけで手間がかかる。そこで、ざっと要点だけをまとめてみる。以下のような内容だというだけで、その正確さは私には判断がつきかねる。
 慶長年間(1596〜1915)に、通商を目的に長崎からタイに渡った津田又左衛門は、山田長政とともに軍将となり、活躍した。その功により、国王は皇女を又左衛門の妻として与え、官吏となった。三左衛門という息子も得た。寛永(1624〜1645)初めに、息子とともに日本に帰国。地域や商売の世話役を務めつつ兼業でタイ語の通訳をやっていたが、本業が忙しくなったので、通訳の仕事はタイでの生活経験がある森田長助に譲った。こういう内容だ。
 ほかに資料はないかと探したら、「トンキン通事魏龍山『訳詞長短話』成立の背景」(高山百合子、筑紫女学院大学)という論文が見つかった。こういう記述がある。
タイ語の通訳は、正保元年(1644)に新設され、以後、森田・泉両家で継承された」
 こうした資料で、長崎奉行の配下にタイ語通訳がいたことは確認できるが、彼らは何をしていたのかがよくわからない。そりゃ、通訳に決まっているだろとは、素直に思えないのだ。タイとの貿易でいえば、貿易に携わっていたのは主に中国人とオランダ人だろう。タイ語ができないと困るという事情ではなかったと思うのだ。先に揚げた論文「トンキン通事・・・」にも、「交易の場で必要なのは第一に中国語であり、東南アジア系諸言語については、漂着船の来る可能性もあり、とうぜん備えておくべきであるが、交易の場での必要性は高くなかったと考えるのは自然である」とある。東南アジアからの漂流者に備えて東南アジア諸言語ができる者を「とうぜん備えておくべきである」と長崎奉行や幕府が考えていたとも思えない。だから、よけいに「シャム通事」の仕事の内容がわからない。こういうテーマは、東京や大阪の外国語大学の各種論文にありそうだが、いまのところ見つからない。今度、専門家に会ったら、聞いてみよう。