読みたい本だが少々高いと、本当に読みたいのかどうか自問自答し、カネを出す価値があるのかどうかコストパフォーマンスを考察し、「よし、買おう」と決心して、その本をついに手にした瞬間は、なかなかの喜びである。
ただし、そういう本が、幸せな結末に至るとは限らない。買っただけなのに、もう読んだ気になってそのまま書棚に入ってしまったり(事典辞典類や、外国語 の本や語学教科書に多い)。あるいはすぐに読むのがもったいなくて、手軽な文庫や新書を前菜にしているうちに、いつまでたっても主菜に入れなくなって、ど んどん後回しになってしまうことがある。2段組600ページなどという大著がそうなりやすい。
2段組500ページの『時刻表世界史』(曽我誉旨生、社会評論社、2008)もそんな本だ。ちなみに、この著者名は、「そが・よしき」と読む。サラリーマンのペンネームだろう。
2008年に出た本だから、交通に興味がある人にはいまさら紹介するまでもなく、名著としてすでによく知られているはずだ。世界の鉄道と空路と海路の時刻表から、当時の歴史を考察してみるという、前川好みの雑学本である。
久しぶりの大傑作との出会いだ。だから、すぐ読むのはもったいなくて、未読のコーナーに積んでおいたら、その上に新しく買った本が乗り、またその上に本が積み重なり、今日まで行方不明になり、年を越してしまったというわけだ。
たんなる時刻表コレクターの収集品自慢本ではなく、時刻表からさまざまな過去を読み取ろうとした力作である。「歴史」を書くということは、工業技術史で あり、政治史であり、経済史でもある。好奇心に一切の制限無しという態度で、時刻表と向きあっている。例えば、アメリカの長距離バス「グレイハウンド」の 中古バスが韓国を走っていた時代があるという話や、神戸から出る船の時刻表を旅館が発行していた理由にも言及している。旅客は渡航手続きのために、出航の だいぶ前から港町に滞在しているから、旅館も旅行情報のサービスをしていたというのだ。
書店で『時刻表世界史』を買おうと思ったきっかけは、1940年代あたりからの東南アジアの航空路についても、詳しく言及しているからだ。エア・サイア ムのように、ある程度は知っている話もあるが、「CAT」という文字が見えたら、買わないわけにはいかない。
CAT(Civil Air Transport)という航空会社を初めて知ったのが、いつ、どこでだったか、まったく覚えていない。アジアでロケした 昔の日本映画で看板を見たのか、あるいは日本とタイの関係史を調べていて知ったのかもしれない。1960年代にバンコクと東京を結んでいたというこの航空 会社のことが知りたかった。
この本を読んでみれば、想像していたとおり、ウサン臭い会社だった。ベトナム戦争中に、ラオスから麻薬を運んでいたCIAの航空会社エア・アメリカにも 似たウサン臭さがつきまとう会社だ。CATは、国民党政府を支援するためにアメリカが作った会社で、表面上は台湾の会社ということになっている。中国語名 は、民航空運公司。コンベア880という中距離ジェット機が1機だけで運航していた会社で、東京、ソウル、台北、マニラ、香港、バンコクの各都市をさまざ まなルートで飛んでいた。この本では数ページの記述だが、きっちり調べると、アジア裏面現代史になりそうな題材である。
興味深い内容満載だから、紹介し始めるときりがない。ただひとこと言えば、この本は2008年のベスト3に入る本だと言っていいほどよくできている。資料をよく集め、よく読み、さまざまな資料で補強していく手法は見事だ。
この本、読み出すまでに時間がかかったという話はすでにしたが、じつは読み始めてからもたっぷり時間がかかっている。「世界で一番短い航空路」という話 が出てくると、ネットで調べたくなる。そして、実際に調べていくと、You Tubeにその路線の動画が出てくる。関連の動画をいくつか見て、本に戻り、しばらくするとまたネットで調べたくなる。500ページの本だから、普通に読 んでも時間がかかるのに、掲載されている現物の時刻表を読んだり、航空路の位置関係を地図で詳しく調べていると、えらく時間がかかる。ということは、資料 収集と執筆には大変な時間と労力がかかったということだが、著者はそれを楽しんで書いている。もちろん、読者も同じように楽しい。
日ごろ学者が書いたエッセイや論文を読むことも多いのだが、調べる楽しさが読者に伝わってくる文章は、ちかごろめったにない。読者を未知の世界に連れて 行ってくれて、「ねっ、ホントにおもしろいでしょ。調べたら、こんな事実がわかったんだ」と語りかけてくれるような本が、昔はいくらでもあったのだがな あ。
この本が「2008年のベスト3に入る本だ」と書いたが、それでは他の2冊は何かと気にかかる人がいるかもしれない。2冊ではなく、4冊まとめて紹介したい。いずれも、書き手が楽しんで調べ、書いた本だ。2007年の『図録 メコンの世界』と、2008年の『論集 モンスーンアジアの生態史』全3巻(いずれも弘文堂)の4冊。4冊全部買うと2万円を越えるので、さすがの私も図書館で借りて読んだ。さすが、秋道智彌さんが編者になった本だけのことはあるという傑作だ。とくに、論集の第1巻『生業の生態史』がおもしろかった。
昨今、東南アジア関連でろくな本が出ていないが、ラオス周辺の本はめこん(出版社)の本とともに、豊作だ。