279話 ユースホステルと海外旅行 4

 断片的情報ならば、この『向こう三軒ヨーロッパ』にも、興味深い記述はいくらかある。
旧制高校的教養
 かねてから、「旅と教養」について考えている。かつての日本人の海外旅行は、旧制高校的教養が大黒柱になっているのではないかと思っていたが、やはりそうだ。この本のドイツ編が、他の国に比べて長いのだ。ハイデルベルクの章では、想像どおりこう書いている。
「三十四、五歳以上の日本人にとって、ハイデルベルクという町は、なつかしいひびきを持っている。カールスブルクの太子、カール・ハインリッヒの遊学中の恋を感傷的にえがいた戯曲、マイヤー・フェルステル作の<アルト・ハイデルベルク>はある時代、日本人の心をかなりゆさぶった」
 そこで、黒田の経歴を調べてみると、1947年に中学4年から旧制四高入学、学制改革で49年に京大入学。旧制高校の最後の時代を体験していたことがわかる。
新制高校の出身者でも、旧制高校的雰囲気のなかで学んだ者も、旅をすると旧制高校的教養があふれ出てくることが多い。その好例が、『思索紀行』(立花隆、書籍情報社、2004)だろう。1940年生まれの立花隆より若い世代では、旅をしてもほとんど「思索」しなくなっている。旅先で「考える」ことはあっても、広く深い教養に裏打ちされた「思索」に発展することは少ない。
 誤解のないように書いておくが、思索する旅がすばらしい旅で、思索しない昨今の旅行者はけしからんといっているわけではない。時代的変化を書いているだけだ。
ヒッチハイク
 当時の日本人は、ヒッチハイクというものがどういうものかほとんど知らなかったはずだ。小田実の『何でも見てやろう』にはヒッチハイクの話が出てきたかもしれないが、新聞の連載記事で、ヒッチハイクの説明が詳しく出ているのは異色だ。ヒッチハイクが西洋の重要な文化だという認識が黒田にあったということと、ヒッチハイクが身近に感じるような低予算旅行をしていたという2点で、異色の新聞記事だ。
 ちなみに、黒田がヨーロッパのヒッチハイクについて文章を書く5年前に、日本ではこういう本が、世界新文学双書の1冊として、すでに翻訳出版されている。『路上』(J.ケルアック、福田実訳、河出書房新社、1959)。

ギリシャ
 ギリシャ編で興味深い記述が二か所あった。ひとつは、1965年時点でも、ギリシャにはまだテレビ放送がなかったこと。ちなみに、日本は1953年放送開始。フィリピンも1953年。タイは55年、台湾は62年。
 もうひとつちょっと驚いたことは、1950年代なかばから、「支那の夜」(1940年公開の同名映画の主題歌)が日本語のまま流行していたらしく、黒田も実際に何度も耳にしている。日本に駐留していた進駐軍兵士がヨーロッパに配置転換になって、日本の歌がヨーロッパに伝わったのだろうと、黒田は想像している。黒田は誰の歌でヒットしたのか書いてないが、もしかすると台湾盤(台湾人歌手が日本語などで歌うもの)かもしれない。日本の音楽が海外に広まるには、中国人ルートに乗れるかどうかという問題もある。
 ウィキぺディアには、「支那の夜」は米兵にも愛されたといった話が紹介されているが、裏付ける資料を読んでいないので、真偽はわからない。
イスラエル
 イスラエルに比較的多くの紙面を費やしているが、パレスチナ人にはほとんど触れずに、親ユダヤ人・親イスラエル的記述が多いのが、私には意外だった。それが、当時の日本の普通の論調なのか、それとも読売的なのか、私にはわからない。
■空手
 黒田らよりも1週間早く、トラックに乗ってバグダッドにやってきた日本の大学生の団体が、ここで空手の実演で瓦を割ろうとしたが、どうしても割れなかったというエピソードを紹介している。その学生が、拓殖大学の団体だろうとすぐにひらめいた。
 1965年2月、拓殖大学世界一周国際親善使節団はいすゞ自動車毎日新聞社などの支援を受けて、日本を出た。トラックに乗っての、1年4カ月間の地球一周大旅行である。
日ごろ、各種旅行記を買い集めているおかげで、その団体の旅行記『世界へ飛び出せ』(佐々木弘吉、TNS通信、1970年)をすでに手に入れているから、「日本の大学生の団体」の一節で、拓殖大学の団体だとすぐにわかったのだ。
 拓殖大学旅行記では、バグダッドの一件については何も書いてないが、クウェートでの記述が興味深い。拓大の使節団が、クウェート日本大使館から夕食に招待されたので出かけた。そこで紹介されたのが、取材旅行中の朝日新聞本多勝一記者と藤木高嶺カメラマンだった。取材後、「アラビア遊牧民」として朝日新聞に連載が始まるのが65年。単行本は1966年だ。
 つまり、1965年の中東には、偶然にも読売の黒田と朝日の本多がいたということになるが、遭遇はしてないだろうと思う。