280話 ユースホステルと海外旅行 5

『向こう三軒ヨーロッパ』はもう読んでしまったから、「復刊の必要は、なし」と思うが、まだ読んでいない記事はぜひ読みたい。
 1965年の夏から秋にかけて読売新聞大阪版に連載された「地中海から日本へ」全56回は、東京本社では中近東部分の30回を「向こう三軒中近東」として連載された。『選集』では、東京版の30回分をおさめたので、残り26回分はどの単行本にも入っていないらしい。
 その26回分の記事を読むのは、ちょっと大変だ。
 読売新聞の過去の記事は、最近ならデジタル版、それ以前なら縮刷版で読める。縮刷版は、ちょっと大きな図書館にはあるから、簡単に読める。ただし、縮刷版があるのは東京版だけで、大阪版はマイクロフィルムで読むことになる。
 図書館でマイクロフィルムを読むのは楽しいもので、時間を忘れるほど「はまる」。マイクロフィルムを読むのは、小さな活字の縮刷版を読むより目には楽だ。
読売新聞大阪版のマイクロフィルムを読みたいと思って調べてみて、愕然とした。東京首都圏では、国会図書館以外では読めないらしいのだ。「そんなに不便かなあ」と思いつつ、読売新聞大阪本社に電話すると、「昔の記事は読めません」とにべもない。無愛想ではないが、事情をよく知らないらしい。ネット検索をすれば、関西のいくつかの図書館では「読売大阪版」のマイクロフィルムを読めることはすでにわかっているが、電話口に出た読売の人はそういうことさえ知らないようだ。念のため、東京本社にも電話したが、「読むのは無理です」という返事だった。有料でいいから、社内に全国の読売新聞が読める「読売新聞資料室」を設けてくれればありがたいのだが、目下のところ、国会図書館に行くしかないようだ。
 ギリシャから始まり、アフガニスタンで終わっている「向こう三軒中近東」が非凡なる完成度があれば、国会図書館に行ってもいいのだが、「まあ、それほどでもないか」という予感があって、いまのところ、まだ行っていない。パキスタンからインド亜大陸そして東南アジアと、私がもっとも関心のある地域の記事が読めないのだが、さて、どうしようか。行くかなあ。
 関西に住んでいれば、簡単なことなんだがなあ。

 マイクロフィルムの話が出たついでに、黒田清がヨーロッパを旅した1964年の新聞をマイクロフィルムからコピーしたので、ちょっと紹介してみよう。読んでいて興味見深いのは記事ではなく、広告欄、それも大きな広告欄ではなく、三行広告のような小さな広告が「時代」をよく表している。
 1964年の求人広告。蛇の目ミシンは「身元確実学歴不問50歳迄 二万五〇〇〇円程度」。三井生命本社は「旧中・新高卒以上。一万九〇〇〇円」。旧中というのは、旧制中学のこと。日産自動車の工員は「一万五〇〇〇円より」。銀座の喫茶店のウエイトレス(ウエトレスと表記している)は、「一万七〇〇〇円。週休」とある。一流企業でも週休2日など夢のまた夢の時代。客商売では、休みは月に2日程度だった。1970年代に入っても、私が働いていた工事現場では、休日は毎月1・15日の2日だけだった。
 日産自動車の工員の場合、日給計算をすれば、1日600円くらいだろう。こういうことがわかっていると、黒田が買った『インターナショナル・ユースホステル・ハンドブック』が500円というのが、送料込みにしても、いかに高い本だったかよくわかる。そういう物価感覚がわかるようになるために、当時の新聞を読むのである。理屈ばかりこねて、言葉遊びに終始している学術書などより、当時の新聞や雑誌を読んだ方が、よほどおもしろくってためになる。
 ついでの、ついでだ。土地の値段も紹介しておこう。当時の不動産広告は、土地の価格は総額ではなく、坪単価で表示している。だから、以下に紹介する物件の(  )内の数字は、その土地の坪単価である。
・代々木駅徒歩6分 55坪(4万円)
・武蔵境徒歩12分 84坪(3万3000円)
中野駅徒歩7分 206坪(13万円)
横浜市上大岡駅徒歩10分 162坪(1万9000円)
 黒田とカメラマンのヨーロッパ取材費は、往復の航空券代を除いて、40万円弱だった。東京の土地の値段を見ていると、40万円など大した金額には思えないが、千葉や茨城の新興住宅地だと、その取材費で50坪から60坪の宅地が買える(北海道・長万部なら、5000坪で62万円。相模湖の別荘地350坪が、52万円で買える)。それらの新興住宅地は現在、同じくらいの広さで1500万から2000万円くらいの価格だから、1964年のヨーロッパ取材というのは、現在ならそれくらいカネがかかったということなのだが、それでも涙の貧乏旅行なのである。こういう経済事情がわかっていないと、1964年の海外旅行は読み解けない。
 「ユースホステルと海外旅行」の話は、今回で終了。