358話 校正・校閲、あるいは編集者の仕事  5

 ロンリープラネットの誤字の話がおもしろくて、編集者に会うとその話をしていたことがある。すると、「じつは、ウチでも同じような・・・」と、秘密にしておきたい過去を告白してくれた人がいる。著者も校正をするが(これを著者校という)、本文の内容に最大の注意を払っているから、文字にはあまり気を留めない。これが著者校の欠点だ。書いた本人が正しいと思い込んでいると、誤りはなかなか見つけられないものだ。 編集者は一歩さがって文章を読むから、著者よりは客観的に文章を判断できるのが、著者も編集者も見逃しがちなのが、表紙や目次や奥付や帯だ。まさか、表紙に誤字・誤記があるわけはないという根拠のない思い込みで、厳しく校正しないことが多いのだ。どの本だったか思い出せないが、目次では第3章は134ページからとなっているが、ページをめくると、そこはまだ第2章の途中だったということがあった。ページ構成が変わったのに、目次には手を入れなかったのが原因だろう。誰も目次をきちんと確認しなかったから、こういうミスのまま印刷されてしまったのだ。
「ウチでやったのも、表紙ですよ」と、知り合いの編集者。「バリの本を作っていたんですが、デザイナーが途中でなぜか「パリ」にしてしまったんですよ。それを誰も気がつかずにいて、校了(最終の校正の終了)直前に気がついて、なんとか直しましたよ」
「ウチの場合は、印刷しちゃいました」と、別の編集者。「日本の場合、ジャケットがあるから、ジャケットだけ印刷しなおせば、費用はかかるが大事には至らない。ウチは、表紙の文字だけ間違いで、扉や奥付は問題なかったですから」
 ちょっと前のことだが、ある出版社が発行している小冊子に出ていた自社出版物の広告に目が止まった。「本田勝一」という著者名の本なのだが、本の内容を考えれば、どう考えても、元朝日新聞記者の本多勝一氏に違いない。広告担当者の、単なる不注意によるものか、あるいは社員が本多勝一を知らなかったので、変換ミスに気がつかなかったか、どちらだろう。本多と本田、伊藤と伊東、裕子と祐子、あるいは数多くある「さいとう」や「わたなべ」の文字など、間違いやすい人名も数多くある。
 知り合いの編集者がやってしまった誤記をいま思い出した。ある雑誌の編集部原稿で、老作家の作品を取り上げたのだが、よせばいいのに「故〇〇氏」と書いてしまったのだ。印刷されたあと、同じ編集部の仲間に、「まだ生きているぞ!」と指摘されて、初めて誤りに気がついた。もう何年も作品を発表していないから、とっくに亡くなったのだと思い込んでいたようだ。この事件のせいではないが、もともと私は「故〇〇氏」という表現はまったく使わない。いまはネットで生存を確認できるが、そのネット情報が正しいとは限らないし、わざわざ「故」を付ける意味もないだろう。
 よく言われることではあるが、インターネットで確認作業というのも、危険だ。なにかと問題点を指摘されるウィキペディアでも、人物プロフィールくらいは正確だろうと思いがちだが、これがけっこう怪しい。ラジオの生放送で、ゲストに有名人が出演するとき、アナウンサーがその人物のプロフィールを読み上げるが、「さっきの、ちょっと間違いがあって・・・」と、当人から訂正の申し入れがあるという例を、何度も耳にしている。おそらく、番組の放送作家がウィキペデイアに出ていた誤ったプロフィールをまる写ししたのが訂正の原因だろう。
 私がパソコンを導入した主な理由は、本の情報を集めるためだった。新刊情報を得たり、本をネットで買おうというのではなく、原稿を書いていて、「あの本の著者は誰だったかなあ」とか、参考文献に本の情報を載せないといけないので、書名・著者名・出版社名・出版年といった正しい情報を集めなければいけないが、自宅の書棚でその本の捜索活動をするのは面倒臭いときに、国会図書館の蔵書リストにアクセスしようとパソコンを導入したようなものだった。
 国会図書館の情報でも誤りはあるし、蔵書リストに載っていない本も多数あるのだが、それでもかなり役に立つ。パソコンのおかげで、かなり詳しい情報が手に入るようになった。問題は、入手した情報をどう判断して、どう使うかだ。