1712話 東南アジアと日本の若い旅行者 その13

 Indonesia Handbook

 

 戦前期からバリに関する記述は多くあるのだが、日本人にとって観光地と認識されるのは1990年代になってからではないか。首都ジャカルタに大観光地はなく、バリへは直行便がない。日本人にはインドネシアは遠かったのだ。

 インドネシアのガイドブックの話を書こうとしているのだが、衝撃的なガイドブックに出会った話を先にしたい。

 1970年代後半のある日だったと思う。場所は、旅行雑誌「オデッセイ」の編集室だった。常連の書き手の誰かが、黒い本をテーブルに置いた。黒皮の手帳のように真っ黒だった。”Indonesia Handbook”という文字は覚えている。著者の名はBill Daltonというのだが、その名に記憶はなく、著者名を覚えぬままコンピューター時代を迎えて、著者名をたった今確認できた。

 この本のページをめくって驚いたのは、おそらく400ページくらいあるインドネシアの旅行ガイドブックをたったひとりで書いたという事実だ。活字は小さく、文章がぎっしり埋まっている。このガイドブックを手に入れた人物が、解説をした。「このガイドの記述が、スハルト政権の怒りをかって、インドネシアに持ち込み禁止になっている」というものだった。その話を受けて、しばらくは「旅行ガイドと政治」の話になった。旅行ガイドは、その国の政権の宣伝媒体になっていいのか、それとも真実と信ずることを書くべきか。書けば、その本を持ち込めないが、独裁政権に気に入られるようなうわべだけの記述でいいのか・・・といった話をした。ツアー客が見る観光地の解説をするだけのガイドブックなら政治性はないように見えるが、独裁者を讃える施設ならたぶんに政治的だ。その国の政治や経済や歴史も書くとなると、どこまで踏むこむべきかなどと考えての会話だった。そういうことをいっさい考えない者か考えないフリができる者が、優秀なトラベルライターとなって、稼げるようになるのだ。トラベルライターは調べたり考えたりしたらいけないのだ。

 “Indonesia Handbook”の著者についてまったく知らなかったのだが、今は便利な世の中になって、“Meet Bill Dalton”というタイトルのインターネット情報があった。これを読むと、1973年のタイプ印刷したものが最初だが、書籍として出版したのは「1970年代後半」ということしかわからない。時期的には、ロンリープラネットと重なる。

 ラテン文字を使う言語だとタイプライターで原稿を作り、コピー機自費出版物を作ることができる。日本語だとガリ版が手っ取り早く、初期の「オデッセイ」がそうだった。もう少し見てくれをよくしたいと思うと、日本語タイプライターを使ったが、大きく、高く、時間がかかった。その後がワープロ専用機だ。安い機種だと1行しか表示できなかったから、校正が大変だった。そして、パソコンの時代に入る。日本語の旅行ガイドは、制作技術と機械の分野で、ラテン文字言語から大きく遅れていたのだ。

 ちなみに、1987年初版の『タイ日辞典』(冨田竹次郎編著)は2000ページを超える大著だが、タイ語タイプライターと日本語タイプライターで打った文章を台紙に切り張りして原稿を作った。冨田先生の自宅に作った作業室に、タイ語がわかるスタッフが集まり、何年もかけて切り張りと校正の作業を繰り返した。トヨタ財団の援助は受けたが、巨額の自費も投入した。

 それが今は、コンピューター1台でできる。「旅行人」の前身である「遊星通信」も、コンピューター(パソコン)時代の夜明けとともに生まれた。