293話 阿里山的姑娘

 新聞の書籍広告が気にかかった。『阿里山カフェ レシピ・ブック』というその本には、埼玉のカフェだという説明があった。阿里山と埼玉のふたつのキーワードから、「もしや・・」という心当たりがあった。さっそく、ネットで阿里山カフェを調べると、想像したとおり、台湾人フェイとアメリカ人ジャック夫妻の店だということがわかった。
 1980年前後の台湾で、フェイは西洋人旅行者の間でもっとも有名な台湾人女性だったかもしれない。
 私が台湾一周の旅をしたのは、1970年代末だったと思う。旅の途中、阿里山鉄道に乗ってみたくて、嘉義駅にいた。阿里山そのものにはとりたてて興味はないが、小さな阿里山鉄道には乗ってみたいという、ささやかな乗り物好きである。インドに行けば、ダージリン鉄道に乗ってみるが、鉄道マニアではない。
 駅の待合室でフランス人旅行者に会った。「阿里山の宿は決めた?」と聞いてきたので、「ガイドブックは持っていないから、どんな宿があるのか知らないんだ」といった。「それなら、これ、貸してあげる」と言って、彼女が手にしていた英語のガイドブック(たぶんロンリープラネットだと思う)を私に差し出したので、阿里山の項を読んだ。ざっと読んで、どこかの宿の記述に、「フェイという女性がいて、とても親切にしてくれるよ」というコメントがあったのは覚えていたが、宿は終着の沼平駅に着いてから、宿の外観などを見て決めればいいと思った。
 もう、はっきりとは覚えていないのだが、終着駅について、客引きの話を聞いて、宿に行ったような気がするが、もしかして、その客引きがフェイだったかもしれない。とにかく、ガイドブックに書いてあったフェイがいるその宿に、偶然にも泊まることになったのである。
 フェイは、そのころ20代後半の私よりちょっと若く、温和で理知的だった。きわめて魅力的な女性だった。どういう教育を受けたのかは知らないが、かなり高いレベルの英語を話した。だから、言葉で不自由している西洋人旅行者たちは、フェイを頼りにしたのだろう。1980年前後は、日本の若者を含めて、世界の若者が数多く台湾にやってくるという時代ではまだなく、バックパッカーが使えるガイドブックは、多分ロンリープラネットしかなかっただろう。もちろん、「地球の歩き方 台湾」はまだない。だから、阿里山にくるバックパッカーは、ほぼ全員がフェイを頼りにしていたと言っても、けっして誇張ではない。だから、フェイが、台湾を旅するバックパッカーたちの間でもっとも有名な台湾人女性という表現もまた、大げさではない。
 列車が来てしまえば宿の看板娘(あるいは、未来の若女将)はヒマになるのか、私の好奇心につきあってくれて、台湾の話やさまざまな雑談をしたが、具体的にどういう話をしたのかは、まったく思い出せない。確かなのは、暖房が必要な肌寒い高山で、おだやかなひと時を過ごしたことである。
 その時泊まった宿の名前も料金も覚えていないが、不思議にいまでも覚えているのは、宿の朝飯のことだ。その宿は、粥といくつかの漬物という簡単な朝飯付きだった。漬物のなかに、「きゅうりのキューちゃん」と見た目も味もそっくりなものがあり、はて、これは台湾人がコピーしたものか、あるいは日本人が台湾で覚えたものなのかが気になった。
 それから時が流れ、1980年代の半ばになって、フェイから日本の自宅に電話があった。自宅の電話番号と住所は教えたが、阿里山での雑談以後、電話はもちろん手紙ももらったことはない(と思う)。突然の電話は埼玉からだった。「日本に住むことになったから、久しぶりに会いませんか」というのだ。陶芸をやっているアメリカ人と結婚して、埼玉に住んでいるという話で、なにかの用があって、夫婦そろって東京に来たので、ついでに私に会おうかと思ったらしい。
 その日、私は珍しくもちょっと忙しくて、彼女たちもいろいろスケジュールがあるらしく、近況報告程度の雑談をあわただしくしただけで、東京の再開は終わった。それが、もう25年くらい前か。そういえば、ながいこと、台湾に行ってないなあ。
 付記 きゅうりのキューちゃんのことは気にはなったが、今まで調べたことはなかった。ついでだから、いまネットで、製造元である東海漬物のホームページを読んでみた。きゅうりのキューちゃんの発売は、1962年のことで、キュウリのほかニガウリ(沖縄名、ゴーヤー)も入っていることを、たった今知った。キュウリは中国産だそうだが、台湾のことは何も書いてない。