336話  つるつるのトイレットペーパー

 ロンドンの大英博物館のトイレットペーパーのことは、いまでもはっきり覚えている。トレッシングペーパーのようにつるつるの紙で、航空便用の便せんに似ていたが、便せんの紙よりまだ厚かった。だから、私は便せん用に少々いただいて利用していた。吸水性においてかなり落ちると思われる紙を、イギリスではなぜトイレットペーパーにしたのだろうかという疑問が長年あった。
 そして、大英博物館のトイレットペーパーで覚えているもうひとつのことは、10センチくらいの間隔で、”GOVERNMENT PROPERTY”と印刷してあったことだ。イギリス政府の財産だから、盗むんじゃないぞ」という意味なのかどうかわからないが、たかがトイレットペーパーにわざわざ印刷している手間と費用のほうが無駄じゃないのかなどと思ったことをよく覚えている。1975年のことだから、もう大昔のことだ。
 その紙の話が、前回紹介した“Thunder , Flush &・・・”に出ている。
 まず、イギリスのトイレットペーパー事情で、「ほっほー」という声を出したくなる記述があった。
 イギリスのトイレットペーパーは、「伝統的に新聞紙が使われてきた。日曜日にはいつも長い時間をかけて、大判の新聞を一六枚に裂き、隅に穴をあけ、ひもを通して束ね、プリヴィの釘に吊り下げる作業がおこなわれていたものです」(日本語版から引用)という。プリヴィ(privy)というのは、庭などにある室外トイレのことだ。原文が主語”I”で始まる文章ではないので、1943年生まれの著者の思い出話なのかどうか、あるいは伝聞なのかわからない。もし、戦後間もなくでも新聞紙を使っていたなら、水洗便器には流せないので、使用後の紙は籠に入れておいたのだろう。
 以下、解説を加えながら要約すると、こういう事情が浮かび上がってくる。
市販のトイレットペーパーは、esparto grass(イネ科、Stipa tenacissima)から作った紙なので、堅く、光沢があり、吸水性が悪かったという。このエスパルト紙が粗悪品なのかと思ったが、調べてみれば本来は書籍用の紙で、かなり高価だったらしい。そういう高級紙をトイレットペーパーにした理由がわからない。この紙はトイレットペーパーには向いていないので、もっとやわらかく使いやすい“Bronco”というブランドの紙が箱入りで販売された。そうなんだ。ヨーロッパのトイレットペーパーで驚くことのひとつは、ロール紙ではなく、ちり紙のような紙が箱に入っていることだ。ティッシュペーパーのようにポップアップ式ではないので、箱から紙がこぼれ出て散らかっている光景を思い出す。この紙も、日本のトイレットペーパーと比べると、かなりつるつるしている。この”Bronco”は、1950年代でも市場を圧倒していたという。ちなみに、圧倒的な市場占有率があることを、”lion’s shore”というらしい。ひとつ覚えた。
 それはともかく、伝統的に、ヨーロッパでは吸水性が悪く、つるつるしたトイレットパーパーを好み、アメリカなどでは吸水性が高く柔らかい紙を好むという違いがあるそうだ。
 イギリスでは、HMSOが公務員用に製造していたトイレットペーパーは、堅く、光沢があり“GOVERNMENT PROPERTY―NOW WASH YOUR HANDS”と印刷されていたという。ああ、これだ。私が大英博物館で見たのは、きっとこれだ。現在では、柔らかいピンクの紙に代わっているそうだ。これも一種のアメリカ化だろうか。
 HMSOとは、Her Majesty’s Stationary Officeの略で、政府刊行物発行所のことだが、そういう役所が、役所で使うトイレットペーパーを製造していた(下請けの製紙会社に委託したのだろうが)というあたりを調べると、いろいろおもしろそうな話が出てきそうだが、きりがないので、ここまで。
 いや、この機会に、ひとつ追加しておこう。古代のトイレは別として、トイレの個室に壁や扉がないというのは中国のトイレで有名だが、アメリカにはいくらでもある。軍や学校の寮やキャンプ場などのトイレだ。ミッキー安川の『ふうらい坊留学記』に、便器だけが並んだ学寮トイレの話が出てきた。そういうことは、昔からすでにいろいろ知っていたが、イギリスにもベンチシート式の便器があったことを、この本で初めて知った。その写真とともにこの本で紹介されているから、わかりやすい。英米では、人前で排泄することの羞恥心というのは、あまり強くないらしい。
 この文章を書くためにいろいろ調べていて、だいぶ前から買おうか買うまいか考えていた本の表紙がネット上に出てきたので、ついついモノのはずみで、注文してしまった。ああ、またやってしまった。
 付記:『ボクが韓国離れできないわけ』(黒田勝弘晩聲社、2008)に、「韓国トイレ紀行」という小文がある。黒田氏が韓国で生活を始めた1970年代のトイレ事情をこう書いている。
 「トイレには用足しのために古雑誌が置いてあったし、だから水洗でも紙は流せなかった。詰まるからだ」
 だから、その名残で今もトイレに、使用済みの紙を入れるクズかごがある。つまり、韓国に限らず、使用済みの紙を流せない世界のかなりの国々では、水洗の設備よりも、流せるトイレットペーパーの開発(あるいは販売)の方が遅かったということがわかる。日本は、世界の標準と比べると、かなり特異な国だということらしい。(2011.8.23)