355話 校正・校閲、あるいは編集者の仕事  2

 それほど数は多くないが、新聞社から依頼されて文章を書いたことがあるのだが、あまりいい思い出がない。ライターとして新聞の編集者とつきあうのは、できれば遠慮したい気分だ。
 その理由はふたつある。ひとつは、あらかじめ新聞社が決めたシナリオ通りの文章を書くことを求められるからだ。ここでは、原発を例にしようか。私を反原発論者だと思ったP新聞が、私に「原発に思うこと」という原稿を依頼したとする。私は単純に「反原発」というわけでもなく、場合によっては、原発は必要だとする文章を書いて、新聞社に送ったとする。原発の話はあくまで例であって、実際の私の意見ではないので、誤解のないように。
 P新聞社は、反原発・即時廃止論で固まっているとすると、私の文章にある「場合によっては原発必要論」を排除する説得工作に入る。わたしの文章全部を、新聞社の考えどおり「完全反原発」論にしようとする。私個人の考えなど、どうでもいいのだ。新聞社は、新聞社の意見を述べてくれるライターを求めているだけなのだ。たぶん、新聞に限らず、雑誌もテレビも似たようなものだろう。
 編集者となった新聞記者と、ライターとしてつきあいたくないふたつ目の理由は、彼らは文章をいじることが習慣になっているからだ。新聞には新聞文体というのがあって、誰が書いても同じような文体になるようなシステムができている。新人記者は、デスクに何度も原稿を直され、鍛えられて、いわゆる「新聞文体」を体得していく。
 まだ20代だったころ、ある新聞社の雑誌編集部で働いていたことがある。編集者たちはいずれも定年まぢかのベテラン記者ばかりで、そこに編集の助手兼ライターとして、この若輩者が出没していたのである。
 あるとき、編集者のひとりであるベテラン記者が、「原稿を見せなさい」といって、書きあげたばかりの私の原稿を奪った。彼は在職中にすでに文筆家として何冊も本を書いていて、定年退職後はたぶん大学教授になったはずだ。
 その記者は右手に赤鉛筆を持ち、私が書いた文章をバッサバッサと削除し、文章の順序を入れ替え、接続詞などを加筆していった。ものの5分で、私の文章は簡潔な姿に生まれ変わった。見事な腕前だった。
 だから、あの時代は、ベテラン記者の仕事を「駄文を修正してくれたありがたい行為」だと思ったが、のちに署名原稿を書くようになっても、「指導する」という態度で同じようなことをされると、困惑するのだ。ちゃんとした編集者なら原稿を勝手にいじるようなことはしないが、「・・・・のように書いたらいかがでしょうか」と、私の文章をちょっといじっただけの文章に変えるように要請されても、困る。編集者の存在価値を主張したいだけの改変要求は、書き手を困らせる。自分の原稿が完全無欠だと思い込み、編集者の修正案をいっさい無視する書き手もいるようだが、私は違う。訂正するのは構わないが、手を入れなくてもたいして変わらないのに、元の原稿を書き直させたがる習性(自分好みの文体に変えたい習性)がある編集者に、うんざりしているだけだ。
 ただ、こういう編集者とは逆に、編集部に届いた原稿を読みもせずにデザイナーに渡してしまう編集者もいるようで、「編集者は原稿を読んでいないだろう」と思われる本も現実には、いくらでもある。編集者が仕事をしなかった奇書として最近の有名な本では、機械翻訳をそのまま出版してしまった『アインシュタイン その生涯と宇宙』(武田ランダムハウスジャパン)があり、そんなひどい本が出版されたいきさつは、アマゾンの書評などで読める。翻訳書、とくに学術的翻訳書の場合は、編集者が少々でしゃばったくらいがちょうどいいような気がする。私が翻訳書をほとんど読まない理由のひとつは、日本語とは思えないような文章を読まされるのがつらいからだ。
 私が書きたい文章は、没個性の新聞記者文体によるものではない。私の文章に対して、「わかりにくい」という批判は受け入れる。加筆や削除など手を加えたほうがいいと判断した場合は、もちろんそうする。しかし、読みやすいだけの文章を書きたいとは思わない。工業製品としての新聞文体の価値は認めるが、そういう文章が書けるようになりたいとは思わない。1冊を1時間ですらすらと読み終える本を書けるようになりたいとは思わない。どこにも引っ掛かることがない文章は、新聞や百科事典や学習参考書の文章にはいいかもしれないが、そういう文体の紀行文やエッセイを読みたいとは思わない。