592話 ナイロビの飯屋

 のちに『アフリカの満月』となる原稿を書いていたころだから、1999年の暮れごろだろう。半分ほど書きあげた原稿を旅行人編集部に送ると(あのころだから、「送る」というのは原稿の束を段ボール箱に入れて宅急便で送るという意味だったが、この本からワープロ専用機で打ち、フロッピー・ディスクを郵送するという風に変わった)、すぐさま蔵前編集長から電話があった。
 「ひとつ聞きたいことがあるんだけどさ、ナイロビを書いている章なんだけど、急に文章の調子が変わって、飯屋と料理の話が続くんだけど、あれはどういう意図があるんですか?」
 やはり、そこに気がついたか。
 「意識してそうしたんだけどね。ナイロビの安飯と飯屋の話は、私が書かないと今後誰も書かないと思うんです。記録としてどうしても残しておきたいので、あえてあそこだけ文章のリズムを変えてでも、解説風の文章にしたんですが、まずかったですか?」
 「いや、それならそれでかまいませんよ」
 心やさしく寛大なる編集長のおかげで、ナイロビの安飯屋の話は削除されずにそのまま本になった。
 実を言えば、ナイロビの安飯屋の話を書いたのはそれが最初ではない。二度目でもない。すでに何度か書いているのだ。
最初に書いたのは、手書きの旅行ガイド『東アフリカ』(オデッセイ、1983)に載せたごく短いコラムだった。次は、旅行エッセイ集『路上のアジアにセンチメンタルな食欲』(筑摩書房、1988)で、ナイロビの安飯屋とそこの料理を「バラック食堂『銭箱軒』」として、12ページほどのエッセイにして載せた。『東アフリカ』を出した後、地球の歩き方が『ケニア』を出したので見てみると、ナイロビの飯を写真で紹介するページはあったが、詳しい説明はなかった。だから、私が書かないと、ナイロビの飯のことは誰も書かないと実感し、『路上のアジアに・・・・』に、エッセイとして書いたのだ。そして、その『路上のアジアに・・・』が、『アジアの路上で溜息ひとつ』として1994年に講談社文庫に入ることになり、また手を入れた。
 そして、旅行人の『アフリカの満月』では、まったく構成を変えたものの、またナイロビの飯屋のことを書いておきたくなった。テレビが映すケニアはいつも動物天国とマサイのジャンプで、ごくたまに放送されるドキュメントではスラムの特集だから、ナイロビ住民の外食事情を紹介した番組を見たことがない。おそらく、出版物でも私以外は書いた者はいないのかもしれないと思った。
 まったく珍しいことに、ナイロビの飯屋の話に興味を持った人がいた。その人が編者となって、世界の食べ物のアンソロジー(選集)を編むという企画を立てて、講談社文庫用に私が書いたナイロビの安飯屋の話を、その本に収めたいという企画・要望書が送られてきた。他の著者候補には村上春樹もいて、一作も読んだことがない作家だが、この作家と共著者になるのもおもしろいと思ったことは覚えている。再録許諾のサインをして返送し、それから半年か1年かして、出来上がった本が送られてきた。村上春樹の名はなかったから、再録を許可しなかったらしいとわかった。そんな記憶はある。
 つい先日、そんな本があったことを突然思い出したのだが、本のタイトルを思い出せない。出版社も覚えていない。そうなると、思い出せないもどかしさを解消したくて、その本のことを知りたくなった。本は送られてきたのは覚えているから、ウチのどこかで眠っているのだろうが、探すのは面倒だ。書名も編者名も覚えていないので、インターネットで調べることもできない。「う〜む」と神経を集中して考えていたら、編者の姓が浮かんだ。朝日新聞の元記者で作家。重金とかいう姓だったか。調べると、重金敦之(しげかね・あつゆき)氏だと思い出し、そうなれば、書名はすぐにわかった。
 『美味探究の旅 世界編』(金重敦之編著、有楽出版社発行、実業之日本社発売、2001)
 ここまでは考えてから10分でわかったのだが、共著者がわからない。アマゾンでは詳しい目次はわからない。国会図書館の蔵書検索でも、共著者はわからない。現物を探すのが早いか、根気よくインターネットで探した方がかえって早いのか迷ったが、その本を自宅で見つけ出す可能性は低いと思ったので、検索を続けて、やっとみつけた。私の共著者は次のような方々だ。こういう人たちと共著者となった。世間的に無名な人は、貧乏ライターの私を除けば、料理人だ。
 池波正太郎荻昌弘田中小実昌大岡玲東海林さだお、前川健一、玉村豊男、金重敦之、風間完中村勝宏、高森敏明、壇一雄、本間千代子、池田満寿夫邱永漢有吉佐和子、貝谷郁子、開高健石毛直道田中英一、前島淳子、大塚滋、池辺史生、渡部万里、藤本徹、齋藤壽 の26人
 私が東アフリカを離れてからもう30年たつが、安飯屋の料理を私以上に詳しく書いた人は現れただろうか。