ナポリ、狂乱の夜 その2
「イタリアは初めてですか?」
チェックインの手続きをしながら、リビアさんが聞いた。
「いえ、2度目です。最初は1982年ですから、遠い昔ですね。1982年がイタリアにとって重要な年だってことは、中高年にしかわからない話題なんですが・・・」
彼女はヒマそうで、コーヒーをいれてくれたのをいいことに、私は昔話を始めた。
1981年に日本を出て、1982年には東アフリカで過ごしていた。ケニアの首都ナイロビで毎日ぶらぶらと遊んでいたある日、ボローニャから来たイタリアの若者と同室になった。とりとめのない雑談からイタリアの食べ物の話になり、マンマの自慢料理の話になったらもう止まらない。1時間の独演会になり、「ぜひ、ボローニャに行くべきだ」という結論になった。
やはり、ある日のこと、知り合いが泊まっている宿に行くと、10台ほど並んだベッドのひとつにいる女がいつものように小鍋に向かっていた。40代の女は、電熱に小鍋をかけて、魔女のごとく、大麻の枝を煮込んでいる。そんなものがどれだけの効果があるのかわからないが、それが彼女の唯一の日課のようなものだった。部屋に知り合いがいなかったので、ヒマな私は彼女に話しかけた。本人曰く、政治活動の結果、イタリアにいられなくなったのだというが、真偽はもちろんわからない。
彼女との雑談は、当然食べ物の話題になり、そうなると両手を使っての独演会になった。訛りが強い英語だから、よく聞き取れず、退屈なのだが、なかなか話がおわらない。両手を縛ったらしゃべれなくなるかもしれないなどと想像しながら、話を聞いているフリをしていた。話の大意はわかっている。イタリアの食べ物はどれだけすばらしいかという自慢だ。
貧乏な旅行者には、料理の選択肢が4つくらいしかないナイロビの食生活にすっかり飽きていて、「ああ、ピザが食いたいなあ」と思った。
それから大分たって、東アフリカに飽きてきたとき、「よーし、イタリアに行くぞ。ピザを食うぞ!」と決意して、ケニアを出た。鉄道、バス、トラックのヒッチハイク、船などで、ウガンダ、スーダン、エジプトと移動して、アレキサンドリアまで着いた。船で地中海を渡り、いったんギリシャに入り、イタリア行きの情報を集めてから、また船に乗った。ギリシャのピレウス港から、南イタリアのブリンディシに入った。それが初めてのイタリアだった。「イタリアで本場のピザを食う」という目的は、冗談ではなく本気だった。ナイル川を下ったのも、ピザを食べるためだ。
昔の旅を思い出すと、その当時は当たり前なのだが、「よくもまあ、ちゃんと旅行したものだ」と思うことがある。夕方、ブリンディッシの港に着いて、旅行情報も地図も何もないが、駅に行ってその日に出る夜行列車の切符を買い、列車が出るまでの数時間、街を散歩した。路地を歩いていると、ピザを焼く釜を備えた小さな店があり、吸い込まれるように店内に入り、「ピザが食べたいのです」とジェスチャーか英語で言い、すぐに薄く丸いピザにありついた。イタリアに入国して1時間ほどで、目的がなかってしまったのだ。
1980年代初めだと、東京や阪神のイタリア料理店以外では、日本ではピザはまだあまりなじみのない食べ物だった。1973年にアメリカのピザチェーン店シェーキーズが日本で展開を開始し、喫茶店ではピザトーストが出されるようになったが、大きな釜で焼いた薄いナポリ風のピザは、日本ではまだほとんど食べることはできなかった。私が初めて食べたピザは、六本木のニコラスだった。1970年代初めのことで、椎名誠とその仲間たちが皿洗いをしていた店としても、一部では知られている。その次に食べたピザは、日比谷三井ビル地下にあった店で。名前は憶えていない。インターネットで探しても、あの店の名はわからない。1970年代には東京にイタリア料理店は何軒もあったが、ピザが食べられる店は多くはなかった。だから、どこで食べたのか覚えているのだ。
路上の市場の八百屋。専門はキノコとトマトか。いずれもナポリ