593話 山田學が語る海外旅行産業史 1/4

 海外観光旅行前夜

 図書館にとって旅のガイドブックは実用品であり消耗品だから、シリーズものは新版が発売されたら、いままで所蔵していた本は廃棄処分になる。シリーズものではなくても、ある程度月日が流れると、廃棄処分になる。あるいは、旅行ガイドブックの点数が多いから、初めから全点購入はしない。旅行ガイドは、図書館では貴重な資料だとは思われていない。国会図書館は例外かもしれないと思い調べてみたら、各年の地球の歩き方全点収集しているわけではないようだ。
 だから、「ガイドブックから見たハワイ旅行の変遷」といった論文はなかなか書けないのだ。ガイドブックを子細に点検して、旅行事情の変化を追うという作業をしたくても、ガイドブック全点を点検することはほぼ不可能なのだ。とにかく出版点数が多いので、出版社でも全点保存してはいないだろう。
 旅行ガイド以外でも、旅行書は廃棄処分になりやすい。例えば、『海外旅行テクニック』(笠置正明、実業之日本社、1963)のような海外旅行の概説書が、一般図書館で重要視されないのはわかるが、旅の図書館(公益財団法人 日本交通公社)や観光学部がある立教大学図書館にもない。どちらの図書館も蔵書検索はインターネットで誰でもできるから、どういう本があり、どういう本がないかは簡単にわかる。旅行の専門図書館にさえ、海外旅行が自由化される前後の、1960年代の旅行解説書や世界旅行ガイドはないのだ。図書館でも無視されているそういう本を、海外旅行史研究の資料として買い集めているうちに、もしかすると私は日本で唯一のコレクターになってしまったのかもしれない。いや、コレクションなどする気はないから、「おもしろくない」という予感があれば買わない。だから、全点収集の意思はない。ただし、ネット古書店では、内容を確認できずに買うことがほとんどなので、買う必要のない本もだいぶ買わされることとなった。
 身の回りに、外国旅行をしたことがある人などひとりもいないという時代の、外国旅行の手引きにはどういうことが書いてあるのか、あるいはその当時に旅行した人はどういう資料を頼りにしたのかと言ったことが知りたくて、折に触れて安い本を買ってきたにすぎないが、そういうことを長年やっていると、けっこうな冊数になった。
 おっと、枕が長くなりすぎた。そういった本の紹介は、折を見てやるとして、今回は読み終わったばかりの本を取り上げる。旅行業界にいた人の回想録である。
 『旅は人に生きる喜びを与えるものです 塾長・山田學の物語』(旅行産業経営塾編、ポット出版、2013)は、この本の成り立ちをきちんと説明しているという点でも珍しい本だ。山田學(1934〜 )は、1956年に近畿日本ツーリスト入社。その後、全日空のチャーター便を使った旅行など、海外旅行にかかわってきた人物で、その生涯をフリーライターの高橋久未子がインタビューして原稿を中心に、旅行業界の関係者の座談会などを加えている。日本人の海外旅行史の資料的価値のある構成になっているので、きちんとした本になっている。以下、私がおもしろいと思った個所を書き出してみよう。
 1956年、山田は近畿日本ツーリストに入社し、名古屋航空船舶営業所勤務となった。「船舶」がはいっているあたりが、いかにも「時代」だとわかる。海外旅行はまだ自由化されていないので、主な業務は名古屋から欧米向けに陶磁器のサンプル発送だった。この営業所の社員は10人いて、8人は貨物、2人が旅客担当だった。大卒初任給が1万円前後というのが世間の相場だったが、近畿は7000円と安かった。山田が扱っていた名古屋・東京の片道航空運賃は3900円だった。つまり、その月給では、東京・名古屋往復の飛行機代に足らないというくらいに飛行機は高い移動手段だったという時代だ。航空運賃は高額だが、会社に入る手数料は5%だから、たかだか195円。ふたりで映画を見るのは、この金額では足りない。酒屋でビールを2本は買えない。その程度の手数料だったそうだ。
 作家、山本一力は、山田よりもちょうど10年遅れて近畿日本ツーリストの社員となった。山本の自伝的小説『ワシントンハイツの旋風』(講談社、2003)を読むと、主人公に先輩たちが、「仕事をちゃんとやらないと、海外旅行部門に飛ばすぞ!」と脅す場面がでてくる。海外旅行部門は1960年代後半でも、まだ日陰部門だったことがよくわかる。
 旅行とは関係ないが、この話で思い出したのは、「8時だヨ! 全員集合」(TBS)のプロデューサー居作昌果(いづくり・よしみ)がラジオ東京に入社したのは、山田が近畿日本ツーリストに入社したのと同じ1956年。仕事がおもしろくないので、サボっていたら、先輩社員が「お前なあ、そんな勤務態度じゃ、テレビ部門に飛ばすぞ!」と脅かされた。ラジオがまだ花形だった時代だ。『8時だヨ! 全員集合伝説」(居作昌果双葉社、1999)に載っていた話だと思うが、確認作業はしていない。
話は海外旅行に戻る。山田の思い出話だ。
 「僕らの仕事のひとつは、外国に行く人の見送りだった」というのも、いかにもあの時代を表している。
 おそらく、1970年代初めころまで、海外渡航をする人の家族や同僚が、羽田など国際空港にのぼりを立てて、見送りに行くという光景を、映画などで見たことがある。外国に行くということは、出征、移民、洋行というイメージで、今生の別れを思い浮かんだのだろう。それほどに、外国旅行は大事件だった。1960年代くらいまでは「外国旅行」と呼ぶことが多く、その後に「海外旅行」が使われるようになったのだが、その理由は不明。
 「1958年、福岡に転勤。細々とした外国旅行のマーケットは交通公社と阪急に握られているので、山田はほかに活路を見出す。それが『戦争花嫁用航空券』だった」
 米軍関係者の妻になった日本人女性を「戦争花嫁」と呼んだ。アメリカ人である夫は、複雑な手続きなしに帰国していったが、アメリカ人の「呼び寄せ」という資格で渡米する日本人妻に、渡航手続きを代行するということから始め、米軍兵士に国内線の航空券を販売することで収益を上げた。