385話 つまらない論文

 ある会議で、大学院生に会った。博士論文を執筆中だというが、話を聞くとまるでおもしろそうじゃない。論文の内容云々よりも、彼の関心分野も行動範囲も非常に狭く、ちょっとでも専門から外れることとなると、まるで無知だということに落胆した。どうせ、つまらない論文が完成するのだろうと思った。
 それから数年たち、ある大学教授と雑談している時に、ふと、この教授とあの大学院生の専門分野がとても近いことを思いだし、「名前は忘れましたが、こんな院生に会ったんですよ」と、あの日の思い出話をした。
「ああ、彼ね。その論文は読みましたよ」
――で、どうでした? 針の穴をほじくりつつ、有名学者の論文を引用しても、自分の考えは書かないような論文だと想像しているんですが・・・
「前川さんがおっしゃるように、つまらない論文でした。やたらに理屈ばかりこねている論文でした。しかしね、そういうつまらない論文を書いたから、彼は大学に職を得たんですよ」
――前川好みの論文など書いたら、教授への道は当然開かれないというわけですね。
「まあ、はっきり言って、そうですね」
 その大学院生にとって、博士論文と言うのは、就職を希望する企業に提出するレポートのようなものなので、その企業が求める内容に沿ったものでなければならない。だから、その院生がどう考えようが、論文は教授たちに認められるような内容にする必要がある。そういう意味では、「つまらない論文」は、見事な成果ということになる。受験勉強は、合格することに意味があるのだから、受験勉強そのものに価値なんてなくてもいいんだということだろう。
 こういう話は以前、ベネベィクト・アンダーソンの著作『ヤシガラ椀の外へ』に沿って、この雑語林の282〜285話で紹介している。つい最近、これと同じようなことを書いている本に出会ったので、ついでに紹介しておく。出版を知ったときから読みたいとは思いつつ、「でも、いますぐ読みたいというわけでもなくて・・・」などと思っているうちに時間が過ぎ去った本だ。アメリカのコロンビア大学政治学を研究しているジャラルド・カーティスが日本語で書いた『政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年』(日経BP社発行、2008)だ。以下、その部分を引用してみる。
「最近の知日派の動向では、二つほど注目すべき点がある。一つは、今の若い学者は実態調査よりも理論を重視していることだ。広く日本についての知識を得ようとするよりも、狭い分野で専門的な知識を深めようとする傾向が強い。これが日本研究に限らず、最近のアメリカの社会科学一般の傾向である。地域研究が評価されず、理論的な研究をしないと大学の教授ポストを獲得できないからだ。」
「日本研究のための奨学資金が少なくなり、博士課程の学生は授業料が高い大学院で時間をかけて日本語を勉強する余裕がない。加えて、長年の日本研究が蓄積した結果、英語で書かれている書物や論文が多くあり、日本語の書物をあまり読まずに議論する若手学者が多い。実態調査を欠いた空虚な論争になる危惧すべき傾向が現れている。」
 著者が重視している「実態調査」とは、どういうものだったのか、彼の経歴を少し紹介しておこう。日本の政治を研究する大学院生だった1966年、彼は中曽根康弘の紹介で大分に住む立候補予定者佐藤文生を訪ね、一年間その自宅に居候させてもらい、日本の政治の勉強をした。その成果は博士論文になり、その論文をもとに『代議士の誕生』(サイマル出版、1971)を出版している。だからこそ、実態調査の重要性を主張しているのである。