1162話 桜3月大阪散歩2018 第16回


 国立民族学博物館 前編

 大阪にしばしば行く目的のひとつは、国立民族学博物館(以下、民博)に行きたいからだ。今まで行ったことがある博物館のなかで、「相性がいい」とすぐに思い浮かぶのは、ワシントンのスミソニアン博物館と大阪の民博のふたつだ。この2館は別格扱いだと言っていい。スミソニアンは、はるか昔に1度行ったきりだが、また行きたい。

 ガーナの棺桶が展示場のすぐ前に展示してある。
 前回民博に行ったのは、韓国の食文化を中心に見るのが目的だった。うまくいけば、この展示の責任者であり旧知の朝倉敏夫教授(当時)に声をかけて、昼飯を一緒に食べながら韓国食文化の話をしようかと思っていたのだが、展示があまりにおもしろくて、気がついたら3時過ぎで、結局昼飯も食べずに閉館までいた。後日、「いらっしゃたのなら、ひとこと、声をかけてくれればお昼を・・・」と朝倉さんに言われたが、民博にいると時間が無くなる。昼食の時間が惜しかった。
 今回も、開館と同時に入り、閉館までいた。音声ガイドを借りて、すべての展示品をじっくり見て、それぞれの展示コーナーの説明を読み、聞き、次の展示にと移動していると、もう閉館時刻だ。最近、音楽の展示が増えたので、見るのに時間がかかる。そして、今回もまた時間切れで、閉館時刻を迎えた。


 こういう面を見て、旅を思い出しながら、音声ガイドを聞く。旅の反芻である。
 後ろ髪をひかれる思いで博物館を出たので、翌日も開館ちょっと前に民博に来た。出直しである。2日目の目的は、数多く収集してある映像資料を見ることで、以前来た時も見たが、まだ全作品を見ていない。民博は「モノで見せる世界」なのだが、そのモノがどう使われているのか、現地で撮影した映像をここで見ることができる。きょうは腰を据えて、じっくり見ていたのだが、定例講演を知らせる館内放送が流れた。気になって受付で講演者を調べると、私が知らないアフリカ学者らしいが、なんとなくおもしろそうだから、講演をやるという特別展示会場に行った。この時の特別展はEEM(Expo’70 Ethnological Mission)である。説明が長くなるが、こういうことだ。
1970 年に大阪で万国博覧会が開催されることになった。テーマ館太陽の塔を企画した岡本太郎は、塔の中で「人類の原点を示すモノ」の展示を考えた。そこで、世界の民族資料を収集する組織、日本万国博覧会世界民族資料調査収集団が作られ、その略称がEEMである。展示品は、パリ大学民族学を学んだ岡本太郎の思想が大きく影響していた。収集団の中心は、泉靖一(東京大学)と梅棹忠夫京都大学)というふたりだが、その当時教授だったのは泉だけで、梅棹もまだ人文科学研究所の助教授だ(69年に教授)。団員の平均年齢はなんと30歳あまりと、実に若い。のちに民博館長になる石毛直道さんも団員だが、当時まだ京大助手だった。のちにアフリカ研究で知られ、民博の教授になる江口一久さんは当時まだ京大の大学院生だった。団員名簿に、「高橋徹」という名があった。記憶に残る名前だ。元京大探検部員で、当時京都新聞記者だった。チモール探検記である『忘れられた南の島』(朝日新聞社、1963年)をすでに出している。アサヒ・アドベンチャーシリーズの1冊で、私はもちろん読んでいる。EEMが京都新聞社に「高橋をしばらく貸してくれ」と依頼した結果、収集団に加わった。そういう時代だったのである。
 ひとことで言えば、団員は大学の探検部などにいた学者のタマゴたちだ。名簿を見ると、明治初期の日本のように、若き人材がひしめいていることがよくわかる。
日本の若者たちが世界に出て、民族資料を買い集めた。その当時の日本は、まだ「カネにあかせて」と言えるほど豊かではなかったが、さまざまな苦労と工夫をして民俗資料を収集し、それが現在の民博収蔵品になっている。
http://192.51.169.32/museum/enews/201
 1970年、高校3年生の私は万博に出かけたのだが、あまりの混雑で太陽の塔には入っていない。だから、その当時は収集品を見ていない。民博に最初に行ったのがいつだったか、それもまるで覚えていない。


 太陽の塔の内部公開が始まったので、大混雑していた。予約制だから、私には縁がない。たまには、普段はあまり目にしない、太陽の塔の背後写真を。