395話 母の背

 子供の頃は、扁桃腺肥大という持病があって、年に数回高熱を出して寝込んだ。母はいくつもの病院に行ったあと、「いずれ大人になったら熱を出さなくなるでしょうから、手術はやめましょう」という診断を大学病院で得て、そのとおり20代後半には、めったに熱を出さなくなった。
 高熱を出して医者のもとに行ったもっとも古い記憶は、たぶん4歳か5歳の頃だったように思う。母が私を背負い、近所の医者の家に急いだことを覚えている。母はとても小柄なのに、私は同年齢の子供よりも大柄で、6歳以上では到底背負えなかっただろうと思う。あの日の母の背を思い出すたびに、心があつくなった。
 母が60歳を超えた頃、雨の歩道で転び、右腕を骨折した。それで初めて、母の左手はほとんど使えないのだと知った。まさかと思うだろう。一緒に住んでいて、そんなことに気がつかないわけはないと、普通なら思う。私も他人の文章なら、「ありえない」と批判するだろうが、事実なのだ。私だけでなく、姉も気がついていなかった。
 のちにわかるのだが、母は赤ん坊の頃に左腕を脱臼したものの、どういう事情があったのかわからないが、治療を受けないままにされて、左腕がほとんど使えなくなった。指は動くが握力は弱く、手の平がやっと肩に届くくらいしか上がらない。右腕を骨折したということは、両手がほとんど使えなくなったのだと初めて知ったとき、我が親不孝に腹が立ち、母の頑張りに敬服した。私を背負って医者のもとに走ったとき、母は右腕一本で私を支えていたのだ。左腕がほとんど動かないと家族にさえ感じさせないほど、右手一本で頑張って生きてきた。
 こういう障害があったせいか、「子供のころから、ずっと意地っ張りだと言われてきたのよ」とよく言っていた母が、きょう亡くなった。
 2月21日の早朝、呼吸がおかしくなった母を救急車に乗せ、かかりつけのF病院に運んだ。応急処置はしてくれたが、「満床」ということで入院できず、やっとH病院に部屋を見つけて入院した。そのあと、私はF病院に戻り、トレッドミル検査を受けて、またH病院に行った。医者の説明では、「全力で治療にあたるが、ご高齢なので、最悪の事態を覚悟してください」と言われた。この日が、前回までの「誰にも明日は見えない」の第1回の話の舞台裏である。
 その後、母の容態は持ち直し、大好きなF病院に移った。ここでも、「最悪の・・・」という医師の説明を受け、10日前と同じように医師と今後の治療方針を話し合い、母を苦しめる延命治療はしないという文書に、また署名した。
 それから3度、「容態が急変した」という電話が病院からあったが、いずれの場合も驚異の回復力で、命をつないだ。そのせいで、「誰にも明日は見えない」という文章は長めに書く時間があり、病院から帰って手を加えて、更新していった。母の命が消えそうな時に、自分の入院話を書いていることに、多少のためらいはあったのだが、あえて書くことにした。「最大の親不孝は、親より先に死ぬことだ」という、ドラマにありがちなセリフが頭に浮かび、親不孝にならずに済んだ話を書いておきたいと思った。
 3月20日夜、病院から4度目の呼び出しの電話があり、病院に着いたらいつものように回復していたものの、今回はさすがの母も心臓が疲れはてて、容態が急変して15分で、あっけなく亡くなった。「最悪の事態を覚悟してほしい」と言われてからひと月生きてくれた。意識がなくなる前にしゃべった最後の言葉は、子供たちの顔を見ながら「来てくれて、ありがとね」だった。