429話 フィリピンの小説、まとめ読み  ―活字中毒患者のアジア旅行

 『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン少年が、大学生になってマニラにやって来た。『民衆』上下(フランシスコ・ショニール・ホセ著、山本まつよ訳、めこん)の、最初のページを読んでそんな印象を受けた。しかし、フィリピンのこの少年ペペは、アメリカの少年よりもずっと図太く、人間臭い。はっきりいえば、好色で好食なのだ。
 マニラの伯母の家に居候をすると、すぐさま女中に手を出す。女中とお楽しみのところを隣家のインテリヤクザに覗かれて、白黒ショウのアルバイトに誘われる。食べ物にも飢えている。絶えず腹を減らしている。だから、この小説にはおびただしい種類の食べ物が登場する。
 そのペペは、大学で政治運動に関わり、トンドのスラムで生活改善運動をやる。改心して、清く正しく生きようとしたわけではない。教条的な政治闘争小説ではまったくない。フィリピンの現代史を理解するための資料としての価値はもちろんあるが、そういうことを忘れて、おもしろい小説が読める喜びが味わえる。おもしろいぞ!
 この小説は、「ロザレス物語」5部作のうちの1冊で、ペペの父親を描いた『仮面の群れ』(めこん)もすでに出版されている。『民衆』が中間小説的なのに対して、『仮面の群れ』は純文学的雰囲気がある。インテリの苦悩を扱った小説は苦手だから、『民衆』を先に読んだのが正解で、『仮面の群れ』が先だと、途中で投げ出したかもしれない。しかし、『民衆』を読んだ後だと、『仮面の群れ』もそれなりに楽しめた。
 『我が心のアメリカ』(カルロス・ブロサン著、井田節子訳、井村文化事業社発行)は、1930年代にアメリカに移住したフィリピン人の自伝的小説。フィリピン人移民の話は日本人にはなじみがないので、興味深い。とくに、アメリカの植民地時代のフィリピン人は、アメリカではアメリカ人ではないし、外国人というわけでもないという微妙な立場だった。興味深い部分はあるが、小説の完成度としては低い。
 『フィリピンの事典』(同朋舎)を読んで、百科事典の終わりの時代を感じた。つまり、浅くても広い情報を与えるような本は、東南アジア物ではおそらくこの事典シリーズが最後になり、以後はテーマ別になるような気がする。ひとつの国の美術事典とか、歴史事典という形か、あるいは『東南アジア○○事典』のようになるかわからないが、読者の要求は、もうそういう時代に入っている。                                      (1992)
付記:88年の『二つのヘソを持つ女』(ニック・ホワキン著、山本まつよ訳、めこん)や、93年に出た『七〇年代』(ルアールハティ・バウティスタ著、舛谷哲訳、めこん)も、どちらもおもしろかった。フィリピン小説にスカ(はずれ)は少ない。私はふだん小説は読まないし、フィリピンに格段の興味があるわけではない。しかし、90年代なかばごろの時点でいえば、翻訳されたフィリピンの小説はすべて読んでいる。外国人が書いたものより、圧倒的に情報量が多いからだが、同時に、読んでおもしろいからだ。ホセ・リサールの『ノリ・メ・タンヘレ』だって、数ページで挫折すること2度だが、3度目は最後まで興味深く読んだ。ちなみに、この本はめったに手に入らない幻の名作で、古本屋で見つかっても、恐ろしく高い。
 テーマ別事典の登場に期待したが、私のアンテナではまだ絶好の事典をとらえていない。おそらく、事典はウィキペディアに移行したのでしょう。