428話 世界三大スープの謎を追い、食文化研究を考える  ―活字中毒患者のアジア旅行

 おそらくもう何百回も使われたキャッチフレーズ、「世界三大スープのひとつ、トムヤムクン」。タイ料理やタイ料理店を紹介する雑誌記事にこのフレーズが登場したら、「私、タイのこと知りません。苦し紛れに、常套句を使っています」と告白しているようなもので、そんな記事を信用してはいけないという証明だ。三大スープに限らず、世界三大料理のように「世界三大○○」などと言ったフレーズを無批判に使うテレビや雑誌を、信用してはいけない。
 それはそうと、「世界三大スープ」というフレーズに、あまりによく出会うので、出典が気になって来た。私の知る限り、このフレーズを初めて目にしたのは、西川治の文章のなかだった。その現物が見つからないのだが、雑誌「ブルータス」であることは間違いない。連載していた「悦楽的男の食卓」の合本が1985年の出版だから、雑誌初出は83年か84年頃だろうと思われる。合本の198ページの写真説明に「トムヤムクン。世界三大スープの一つ。レモングラス、マナオの芳香とパクチーコリアンダー)の葉、酸味のきいたこのエビのスープを何度も口にした。この辛さは暑さに不可欠」という文章がある。
 先日、石毛直道さんの『文化麺類学ことはじめ』(フーディアム・コミュニケーション)の出版記念パーティーがあり、その西川氏に会ったので、三大スープのことを聞いた。
「あの記事以前に、『世界三大スープ』というフレーズに出会っていないのですが・・・」
「うん、そうだろ」
「で、出典はなんです?」
「いや、出典というよりさ、トムヤムクンは世界三大スープと呼んでいいくらいうまいだろ」
「ということは、つまり・・・」
「そう、オレが考えたの」
 やっぱり、想像していた通りだ。
 石毛さんのパーティーだから、もちろん石毛さんとも食文化のことなどさまざまな話をした。食文化の研究者といっても、調理学とか栄養学とか歴史学など、自分の専門を出ない本が多いのでつまらないなどとグチを言うと、石毛さんは、「まあ、学者は普通、日常生活に近い分野の研究は避けるものだし、専門を決めて、そこから出ないものですから」といった。もちろん、石毛さんは、そういう学者ではない。
 専門を出る出ないという以前の問題なのだが、お料理の先生が食文化の勉強をしないことに不満を感じることが多い。はっきり言えば、うんざりしている。例えば、この本だ。最近出版された『タイ家庭料理入門』(うめ子ヌアラナント・安武律、農文協)は、たくさんの「?」が頭に浮かぶ本だ。ちなみに、この本もトムヤムクンを「世界三大スープのひとつ」として紹介している。ヌアラナントは、1946年以降タイに住んでいる元日本人。安武はタイに留学して、食文化を研究していると、著者紹介の記事にある。
 私が「?」と思った部分を書き出す。長くなるので、解説はしない。わかる人だけ、わかってください。タイの食文化に関心がある人が読めば、私と同じように「?」でしょう。
■タイ北部の人は漬物を食べますが、南部、バンコクは食べない。バンコクでは、漬物の代わりに干し魚のしょっぱいのを食べます(漬物の代わりに、魚? バンコクでも、高菜漬けを使うんだがなあ)。
■中国系タイ人の場合は、クルクル回る丸い膳を持っているんですが、でもスープは必ずタイのスープですね(自宅に、回るテーブル? 中国料理店の話なら、スープだけはタイ料理と言うのは変だ)。
■あちら(多分、タイのこと)のタイ料理の本は全部英語なのですが・・・(タイ語の料理の本は、ない?)
■昔は調味料といいますとカピだけ(エビ味噌のカピだけで、数十年前にはナムプラーはなかったということか?)。 (1991)
 付記:上の記事が載った「新刊案内」が発行されたらすぐに、かの森枝卓士大兄から電話があった。「1970年代の終わりころ、すでに日本人駐在員の間で「世界三大スープ」という表現が使われていたから、『ブルータス』の記事が最初じゃないと思うよ」とのことで、世界三大スープの謎は、また振り出しに戻った。西洋人がガイドブックのなかで使ったのかなとも思ったのだが、少なくともネット上の英語の情報では、「世界3大スープ」といった表現は見つからない。Wikipediaでも、日本語版だけで見かける表現で、ほかの言語では見ない。ということは、「世界3大スープ」は日本製の表現らしいという仮説が成り立ちそうだ。
 森枝説が正しいとすれば、1970年代は、タイ料理店が日本にまだ1軒しかなかったし、日本のマスコミがタイ料理を積極的に取り上げる以前の時代なので、「世界3大スープ」という話は、1970年代のバンコクの日本人駐在員たちの流言飛語ということになりそうだ。「初めて日本にトクヤムクンを持ちこんだ業者が、売り込みのために創作したキャッチコピーであるという説もある」というウィキペディア日本語版の情報は、例によって出典を明示していないし、ちょっとおかしい。トムヤムクンは酒やケーキや調味料ではないので、売り込むと言っても、売る商品がない。まだ調味料やハーブを袋詰めにして売る時代ではないので、店で出す以外、トムヤムクンを「売る」手段がない。しかし、こう考えることもできる。70年代唯一のタイ料理店である日比谷のチェンマイが、マスコミの取材を受けて、「トムヤムクンは世界3大スープのひとつで・・・」と話し、それが記事になり、バンコクの日本人社会に広まったという仮説だ。
 しかし、この仮説の問題点は、日比谷のチェンマイが1979年の開店だということだ。だから、「マスコミの取材を受けて・・」という前川仮説が正しかったとしても、インターネットのない時代に、すぐさまバンコクの日本人社会に伝播するとは考えにくい。というわけで、13年ぶりに、森枝教授のご高説を、おうかがいたいところです。