430話 なぜか、今回は女が書いた本特集  ―活字中毒患者のアジア旅行

 
 日本に帰ってくるとヒマだから、晴読雨読活字三昧の日々。最近読んだ本を、片っぱしから紹介してみよう。今回は、なぜか女が書いた本が多くなった。
 まずは、パキスタンの小説。『ダーダーと呼ばれた女』(ハディージャ・マストゥール著、鈴木斌編訳、大同生命国際交流基金)は、短編小説集だ。女が書く女の世界だが、まったく甘くない。やはり、表題作の「ダーダーと呼ばれた女」が、すさまじい迫力だ。「あたしゃ女じゃない。悪党なんだ」と宣言して暴れまくる女の、悲しくも破壊的な生き方を描いている。
 『イエロー・フェイス』(村上由美子、朝日選書)は、アメリカ映画がアジア人をどう描いてきたか詳しく検証した労作。とんでもなくひどいアジア人がアメリカ映画に登場してきたが、蛇足ながら、アジア映画のなかにもひどい外国人を登場させているという現実も忘れないように。あるいは、外国に「変な日本語」の表示やTシャツの文字があるように、日本にも「変な外国語」がいくらでもある。それが「変だ」とわかる語学力がないので、Tシャツの変な英語がまかり通っている。
 映画関連の本をもう1冊。『スクリーンのなかに見える台湾』(田村志津枝、田畑書店)は、台湾の映画紹介本ではなく、映画からさぐる台湾という方向性がいい。不満な点はいくつかあるが、水準は超えている。
 『フィリピンの大衆文化』(寺見元恵編・監訳、めこん)は、映画の項目がおもしろい。役者の演技が大げさなのは、「映画が演劇を乗り越えられないからだ」という話に納得。たいていの国では、映画が登場する前に舞台劇があるから、舞台の演技が映画に強い影響を与えている。
 シンガポール関係書におもしろい本が少ないのは、シンガポールがおもしろくない国だからか。そんなことを考えながら読んだのが、『「頭脳国家」シンガポール』(田村慶子、現代新書)。再入国したければ、書いてはいけない事が多くある国で、寸止めで書いたのがこの本かもしれない。これがいまのところ、シンガポール本のベストだろう。
 『私は“水色のしまうま”』(ペン・セタリン、講談社)は、『カンボジア最前線』(熊岡路久、岩波書店)と同じ欠陥がある。前者は、書き手が外国人だから、おそらくライターが聞き書きしたものだろう。この2冊の本とも、編集者が主導権を持って導いたらいいのだが、後者の場合は、著者がそれを潔しとはしなかったのだろう。この2冊とも、まとまりがひどく悪い。
 有能な書き手が聞き書きすれば、すばらしい本になるというお手本が、『大地の教え』(オスマン・サンコン講談社)だ。著者は日本語の文章が書けないはずだが、実際の聞き手の名は明記していない。詳細な註の書き手の名も書いてない。おそらく、文化人類学専攻の学者のタマゴのアルバイトだろう。そのおかげで、「普通のタレント本」という予想に反して、専門的な解説文に、「おおっ」と驚いたことがある。例えば、稲刈りの話に、こういう註がつく。「ギニアでは日本同様鎌で株を刈るが、サバンナでは、小刀で穂先だけを刈っていく穂刈りが一般的。バラ蒔きだから、芽が出ないところがあって・・・・」と解説が続く。
 「著者」という人が、明らかに文章を書いていないことがわかっている場合、「聞き書き」とか「構成」といった名称で、実際に文章を書いた人の名が明記している本は、内容も優れている確率が高い。オスマン・サンコンのこの本の場合は、その例外だ。   (1993)
付記:村上由美子が『イエロー・フェイス』のすぐ後に出したのが、日系俳優マコ岩松らを追った『イースト・ミ―ツ・ウエスト』。これもおもしろく読んだ。いま、村上の著作リストを調べていて、『ハリウッド100年のアラブ』((朝日選書、2007)が出ていたと初めて知った。チェックミスだ。
 聞き書きの名手は何人かいるが、私は小田豊二が好きだ。三木のり平聞き書き、『のり平のパーッといきましょう』。時代劇のベテラン切られ役の聞き書き、『どこかで誰かが見ていてくれる 日本一の切られ役・福本清三』など多数あり。塩野米松(しおの・よねまつ)の職人聞き書きも、何冊か読んでいる。
 聞き書きは、録音したテープを活字化したものではまったくないので、芸と技が要求される。しかも、書き手の思想を加えてはいけないのだから、黒子精神も要求される。かつて、この技術の訓練をしようと試みたことがあった。「旅行人」がまだ薄かった時代、蔵前編集長と対談をよくやったのだが、あれは録音などせずにふたりで何時間もしゃべり、記憶をもとに私が2000字くらいに構成したものだ。