482話 自然が呼んでいる

 トイレに行きたい気分を婉曲に伝えるときに、英語では「自然が呼んでいる Nature calls me」と言うのだと、誰かのエッセイで読んだのは20歳ごろだろうか。こういう表現は昔の小説などでは使われたのかもしれないが、とっくに時代遅れで、今はだれも使わないのだろうと思っていたのだが、そうでもないらしいと気がついたのはニューヨークにいたときだ。深夜にラジオでジャズを聞いていたら、音が消えてレコードから回り続ける雑音だけが流れていた。日本では考えられない放送事故だが、アメリカではラジオ放送の仕事をすべてひとりでやることが多いので、なにか事故があればこういうことになるらしい。いったい何が起こっているのか気になって、そのまま雑音に付き合っていた。
 1分か、あるいはもう少したっていたか、ふたたび女性DJの声が戻り、「ごねん、ごめん。自然が呼んでいたというわけで・・・・」と、トイレに行っていたので遅れたという弁明をした。
 “Going Abroad” (Eva Newman , Marlor Press , Minnesota , 2000)という本を買った。このタイトルだけでは内容がわからないが、サブタイトルを読めばよくわかる。
 “The Bathroom Survival Guide /How to answer the call of nature anywhere in the world. A must for travelers−wherever they,er,go! “
http://www.amazon.co.jp/Going-Abroad-Bathroom-Survival-Travelers/dp/1892147033/ref=sr_1_10?s=english-books&ie=UTF8&qid=1358321587&sr=1-10
 旅行関連書を調べていて見つかったこの本は、毎年私がチェックしている便所本に入る本で、今年はまだ調査を始める季節ではないのだが、たまたま見つけたので買うことにした。
 この本は、世界旅行者のためのトイレガイドといった体裁のエッセイなのだが、こういう本を取り上げるたびに書いているように、この本の著者も女性だ。70年代初めから外国を旅していることは本書の文章でわかるので、60歳代だろう。旅好きのライター&イラストレーターである。
 自分のトイレ体験記に多少のウンチクを加えた内容だから、豊富な資料で埋まっているわけではないが、ちょっとおもしろい読み物になっている。
 アメリカ人である著者にとって、外国旅行で出会うもっとも衝撃的なトイレは、しゃがみ式のトイレだ。今までの人生で、床でも地面でも、そもそもしゃがんだことがないアメリカ人には、「しゃがむ」という姿勢がどういうものなのか解説が必要だと著者は考えた。「旅に出る前にしゃがむ練習をしておきましょう」と、バランスの取り方を教えているのは、決してジョークではなさそうだ。
 しゃがみ式トイレは、日本を除けば、往々にして水で処置する方式か、トイレットペーパーを使うが便器には流さない習慣になっているかのどちらかであることが多く、それも異文化衝突になる。ヨーロッパ大陸で暮していれば、パリのカフェなどしゃがみ式便器に出会う機会はあるのだが、アメリカでは、野外生活が趣味の人以外、「しゃがむ」という行為さえ理解不能だろう。だから、「しゃがむ」を教える部分が、落語の「あくび指南」を思い起こさせる。
 著者は、水処理の方法を考察している。水が入ったカップを右手に持って洗う場合、左手は左足の前にくるか、あるいは左足の後ろにくるか悩んでいる。著者が現地で教えてもらった方式は、インドでは左手は後ろに回して洗い、東南アジアでは前から洗うのだという。著者の体験では、手を前に回して洗うのは、苦しい姿勢だと書いている。
 この点については私も調べたことがあるのだが、左手が前か後ろかということに関しては、どうも地域差はなく、個人差が大きいような気がしている。わずかな聞きとり調査の結果だから、確証などない。「全アジア アンケート調査」でもしないと結論は出ない。このあたりの話をもう少し詳しく知りたい方は、拙著『タイ様式』(講談社文庫)に書いたエッセイ、「アジアの尻の洗い方、その後」を参照されたい。
 腰掛式便座の上に乗ってしゃがむ人が少なからずいるという話は何度も書いてきた。著者は、サンフランシスコ国際空港のトイレで、便座に足形がついているのを見つけて、アメリカとは別のトイレ文化を持った人たちがやって来たことを実感したようだ。
 そこで、著者は ”squat toilet converter “なるものを紹介している。「しゃがみ式便器転換機?」。想像してもよくわからないので、画像検索してみた。しゃがみ式便器を腰掛式のように使う器具というのは通販の広告かなにかで見たことがあるのだが、これは逆に腰掛式便器に安全にしゃがむための器具だ。画像検索するといくらでも資料がでてくる。こういう調査をやっていると、どんなことにも知る喜びがあるものだとわかる。以下の画像は、しゃがみ式→腰掛式転換と、逆に腰掛式→しゃがみ式転換の両方の転換器具を紹介している。
https://www.google.co.jp/search?num=10&hl=ja&site=imghp&tbm=isch&source=hp&biw=1536&bih=764&q=squat+toilet+converter&oq=squat+toilet+converter&gs_l=img.12...2053.13633.0.15963.22.11.0.11.11.0.67.632.11.11.0...0.0...1ac.1.b5CuEoiZfmA